空襲の体験を振り返る伊藤さん=徳島市下助任町2の自宅

 徳島市が焦土と化し、約1000人が犠牲になった徳島大空襲から4日で76年を迎える。広島県から嫁いだ直後に空襲に見舞われた、興源寺(徳島市下助任町2)前住職夫人の伊藤玉子さん(95)に当時の様子を語ってもらった。

 広島県は軍港の街。私は江田島市で生まれ育ち、呉市の女学校を卒業した後に市内の第11海軍航空廠(しょう)で1年間勤め、技術将校だった夫と結婚しました。夫は名古屋帝国大(現・名古屋大)の学生でもあり、結婚してすぐ大学に戻りましたが、名古屋市内は空襲で焼けて住む所がない。「君は徳島に住んだらいい」と提案され、1945年6月に夫の実家である興源寺に引っ越しました。

 寺に到着してすぐ、近くの助任国民学校(現・助任小学校)に1トン爆弾が落ち、19人が亡くなりました。どんな人が犠牲になったのかは分かりません。本堂に安置された多数のひつぎに衝撃を受け、正直「えらい所に来てしまった」と思いました。

 徳島大空襲は、爆弾による被害の後片付けをようやく終えた、1週間後の7月4日未明に起きました。空襲警報の後、徳島駅の辺りに爆弾が落ちたとの知らせを聞き、夫の妹と2人で門前に掘った防空壕(ごう)に入ったところ、近くに焼夷(しょうい)弾が次々と落ちてきました。寺に下宿していた学生さんから「ここは危ない。逃げないかん」と促され、境内にある歴代徳島藩主の墓所「御霊屋(おたまや)」まで走りました。

 当時の御霊屋の周りには農地が広がり、視界を遮る物はありません。バケツを頭にかぶって市内を眺めていると、空襲で焼けた松の木がパチパチと燃え、時折落ちてくる照明弾が町を明々と照らしました。数時間後、日が昇って本堂に戻ると何も残っていませんでした。

 空襲前、座禅に通っていた当時のNHKの局長から「放送局が焼けたら寺で放送させてほしい」と申し入れがあり、境内にアンテナを立てていました。そのためでしょうか、寺があるのは集落の端なのに、執拗(しつよう)な攻撃を受けました。

 義父は住む所を失った私に、親戚が住職を務める圓通寺(吉野川市鴨島町牛島)を頼るよう指示しました。すぐに義妹と2人で徳島駅に向かったので空襲直後の市内はよく見ていませんが、駅に到着するまでの間に負傷して包帯を巻いた人を大勢見掛けました。

 徳島駅で汽車は通過するばかり。止まってくれなかったので2人で佐古駅まで歩き、やっと乗れました。牛島駅で降りて圓通寺に着くと、本堂は空襲で焼け出された徳島の人でいっぱいでした。屋根も食べ物もあって助かったけれど、着の身着のままでやってきた私たちには着替えもありません。1週間お世話になった後、思い切って広島に帰ることにしました。

 松山市を経て江田島市の実家に帰りはしたものの、連日、米軍のB29爆撃機が飛来し、家と防空壕の繰り返しでした。

 8月6日の朝、イワシ売りのおばちゃんが来るのを友達の家で待っていた時、ドーンという大きい音が響き渡りました。「イワシどころではない」。そう思い急いで家に帰ると、広島市方面に立ち上るキノコ雲が目に入りました。しばらくして、たくさんの負傷者が江田島市内に運び込まれてくるのを目にしました。1カ月のうちに次々と亡くなったそうです。友人の妹も、女学校のクラス全員で爆心地付近に勤労奉仕に出掛けて巻き込まれました。友人は遺骨を拾うことすらかなわず、原爆忌には必ず広島市の慰霊行事に足を運んでいます。

 大変な時代をよく生き抜いたと思います。犠牲になったのは戦争を指揮する人たちでなく、私たち一般国民。もう二度としてはいけません。

 徳島大空襲 太平洋戦争末期の1945年7月4日未明、徳島市上空に飛来した米軍のB29爆撃機129機が大量の焼夷弾を投下し、一夜で市中心部を焼け野原にした。死者は約1千人、負傷者は約2千人に上り、約11万人の市民のうち約7万人が焼け出された。