毎日のように目にする風景も、そこであった歴史を知れば、また違って見える。徳島市内の6割が焦土となった徳島大空襲から76年となった4日、徳島中央公園で「徳島大空襲を語るつどい」(反核・憲法フォーラム徳島主催)が開かれた。今は市民の憩いの場となっている中央公園だが、76年前の今日は焼夷弾があちこちに落ち、公園内の防空壕(ごう)は人であふれ、池の中にも戦火から逃れた人がいた。公園内に実家の営む料亭があった東條浩士さん(84)=徳島市=が当時を振り返り、約50人が徳島大空襲を追体験した。

市民の憩いの場である徳島中央公園

 東條さんは当時8歳。数寄屋橋の西側にある石垣の上に生家の料亭「第二喜楽」があった。

生家があった場所で、昔撮影した写真を見せる東條さん=徳島中央公園

 当時は公園に図書館、武道館、茶屋、洋食屋などいろんなものがありました。料亭「第二喜楽」は3階建て。1階でつくった料理を手動の小さなエレベーターみたいなもので、2階、3階へと運んでいました。3階は大広間で、宴会ができた。徳島で相撲があったときには、その打ち上げをしたりもしていました。

  食糧統制もあり、昭和20年には料理屋は廃業。海軍の寮になっていました。海軍さんたちはなんだかゴロゴロしている、そんな印象がありましたね。家は彼らの賄いをつくっていました。

数寄屋橋の西側にあるこの石段。上っていくと「喜楽」の玄関にたどり着いた

 敗戦の色が濃くなる中、徳島県内でも空襲が多発するようになる。6月22日の秋田町の空襲では123人、6月26日の下助任町、住吉への空襲では36人が亡くなっている。

  秋田町の爆撃には衝撃を受けました。私は見に行ってはいませんが、見に行った友達はいて「すり鉢のような爆弾があった」と話していた。助任方面への空襲時には、警報があり、学校から帰宅していましたが、衝撃は非常に強く、ガラス戸が倒れて堀に入った。それぐらい爆風があったんですね。その頃から、私たち家族は夜になると防空壕で寝るようになりました。畳を敷いて、薄い布団をかけて寝ていました。

 父はなぜか楽天的で「うちが燃えることはない」「海軍さんもいるし」と話し、親戚の荷物を預かったりしていました。

 体が小さかった父は徴兵検査で不合格になり、本人はそれを苦にしていた。だから私にも「たくさん食べて体を大きくしなさい」としょっちゅう言っていました。戦争に行っていないので、町内の人たちと警防団をつくり、警報が出れば警備に出ていっていました。空襲のときにはほとんど家にいなかった。当時、家族は父、母、祖母、叔母と子どもが5人。一番上の姉は10歳、次に8歳の私、3歳の妹、1歳の弟、一番下の妹は生まれて1月半でした。

 米軍のグアム島基地を出撃したB29爆撃機が徳島市に飛来し、焼夷弾を投下し始めたのは4日午前1時すぎ。約2時間の間に焼夷弾約1000トンが投下され、約1000人が命を落とした。被災者は約7万人にも上り、徳島市内の6割が焦土となった。

 7月3日から4日にかけても、防空壕で寝ていました。目を覚ましたのは、防空壕の扉をドンドンドンとたたく音がして。公園に逃げてきた人たちが「入れてくれ」と叫んでいました。当時は公園か眉山に逃げる人が多かった。防空壕はほうぼうにありましたが、いっぱいで入れなかったんでしょう。扉を開けると4、5人がドヤドヤと入って来ました。寝ていることができず、起きて座り、詰めてスペースを空けました。入ってきた女の人が、赤ちゃんだった一番下の妹を抱いてくれました。

数寄屋橋を渡ったすぐの辺りにも市の防空壕があったという

 1937年に施行された「防空法」は2度の改正を経て、空襲時の都市からの退去を禁止し、応急消火活動を義務付けていた。戦意高揚のために生まれた法だが、避難よりも消火を優先する人も多く、犠牲を拡大したという指摘がされている。

 母は焼夷弾を消すつもりだったんですね。当時は落ちたらまず、消す。母は消す準備を市に行った。父が頼りにしていた海軍の人たちは一人もいなくなっていた。勤務の用もあったんだと思いますが。家はだんだんと燃え、母は「これは駄目だ」と防空壕に戻ってきた。

 焼夷弾がやんだとき、「逃げるのは今」とバタバタと外に出る人たちがいた。私もそれにつられて外に出た。後で母からずいぶん、叱られたんですが。すると、焼夷弾が至る所に落ちている。リボンが付いていて、それが光に反射して、キラキラしながら落ちてくるんですね。地面は土でしたから、落ちると突き刺さる。すると火を噴く。何本もの焼夷弾が地面に突き刺さり、火を噴いていた。怖くなって、防空壕の中にまた入りました。

焼夷弾が地面に突き刺さる様子を説明する東條さん

 しばらくすると防空壕の中に煙が入ってきた。ここでいてはいけない、と外へ。出るときに、母が「寿子(ひさこ)は?」と言う。一番下の赤ちゃんのことです。よそのおばちゃんが抱いてくれていたが、その人はもういない。「連れていったのだろうか」となり、ともかく外に出ようとなった。すると、出る途中で母が軟らかいものを踏んだ。それが妹だった。「寿子がこんな所に」と抱えて、一家で外に出た。

 私と姉は上掛けの布団を頭からかぶっていた。ただ、弟と妹がどんなにして逃げたのか覚えていないんですね。多分、祖母や叔母が連れて行ったんだと思うんですが、自分のことだけで精一杯だった。

 近くに「武徳殿」という武道館があり、それはまだ燃えていなかった。助任方面を見ると火の海だった。池には既に何人かが入っていた。自分たちも入り、しゃがんで漬かり、布団を笠のようにした。しばらくすると武道館が燃え始め、池の水が段々と熱くなっていった。

火の手から逃れて入った池の前に立つ東條さん

 武道館が焼失した頃、夜が明け始めた。池から出ると、靴が一つなくなっていた。上がるまで気付かなかったんですが。でも、地面は熱くて、片方がはだしでは歩けない。その辺りに倒れている人がいて、その人の下駄(げた)をもらって履いた。「もらった」なんて言いましたが、取ったんですよね。その方は多分、死んでいたと思うけれど、生きていたかもしれない。でも、何の断りもなくもらって、下駄に履き替えた。

 朝になるとごうごうと風が吹き、煙が渦を巻いていた。まん丸の紫色をした太陽が空に張り付いていた。異様な太陽でした。

 家は焼失しており、石段の所で座ってぼうっとしていたら、父が帰ってきた。パトロールをしていたら空襲が始まり、今はアミコビルがある場所に建っていた内町小学校で一晩過ごしたそう。家族が全員、無事であることに喜んでいた。私のすぐ下の弟は幼くして亡くなっているのですが、母はその弟の位牌(いはい)を持ち出せなかったことを悔やんでいました。

 そうこうするうち、二軒屋で叔父が営む「第一喜楽」が焼け残っていると聞き、歩いて行くことになりました。道中でいろいろな状況を見ました。市役所横の市民グラウンドが遺体置き場となっており、遺体がゴロゴロと置かれていました。どうすることもできないまま、ただそうした状況を見ながら歩きました。

かつて「喜楽」があった場所には今、石段と石垣だけがある

 現在、コロナ禍という非常時において、自分の身を守りたいが故の感染者やその家族らに対する差別が起きている。東條さんは戦下という非常時、倒れている人の下駄を断りなくもらったという。そのときの心のありよう、そして戦争のような悲惨な人災を防ぐために必要なことを尋ねた。

 いざというとき、人は自分のことを考えてしまうんですね。私の下の妹を捨てた女性だって、薄情に見えますが、自分を守るためにはそうせざるを得なかった。極限の状態になるとそうしたことをしてしまう。そんなギリギリの状況を生まないことが、大切です。

 負けた側や被害者であっても、人間性を失ってしまうことはある。一方で米国が戦後、つくった映画にも戦争で受けた痛みを描いたものがある。勝った国も傷を負っている。常々、相手の立場でものを考え、共存する方法を考える。そうした価値観を根本にしなければいけない。こんなことを言うと「理想論ばかり」なんて言われたりもしますが、ほかに何か方法はありますか。戦後、民主主義が入ってきて、「これからは新しい世の中になる」という期待感であふれていました。でも、今のいろんな状況をみると、当時期待したような世の中にはなっていません。

 

 

2020年に徳島新聞がYAHOOと制作した東條さんの証言動画

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 「徳島大空襲を語るつどい」では、そのほか、公園内に残る戦争の傷跡を見て回った。

 城山の南側には防空壕跡が雑草に埋もれてひっそりとあった。徳島城博物館の西側にある大きな銀杏(いちょう)の木には、「空襲後にブスブスと燃えていたのを見た」という証言がある。城山に上る階段には六角形の印が所々に入っており、焼夷弾の跡ではないかという声がある。

城山の南側にある防空壕跡。ふたがされ、雑草に埋もれている
城山に上がる階段には六角形の印があちこちに入っている。「焼夷弾の跡ではないか」という声がある
徳島城博物館の西側にある銀杏の木。「焼夷弾を受けた」という証言がある。幹の太さの割に高さがない

 つどいは今年で24回目。反核・憲法フォーラム徳島の代表委員・高開千代子さん(67)が心配するのはこれからの記憶の継承だ。「例えば、県庁近くには焼け残った三河家住宅がある。閉めたままにしているが、ここを資料館として活用することはできないだろうか」と提案する。「体験者にしか話せないことをこれまでたくさん聞いてきた。私たちの世代は、それを語り継いでいくという使命がある」。

 土地の記憶をつなぐ。わたしたちひとりひとりが、実践者になりたい。

1928年に建てられた三河家住宅の内部。国の重要文化財。2011年に徳島市に寄贈された。老朽化も進み、現在は非公開。高開さんは「リニューアルして戦争の資料館にできないか」と話す