徳島市・鈴江節子(94)

 戦争まっただ中だった昭和16年から昭和20年までの5年間、県立徳島高等女学校(現城東高校)に通いました。

 入学時には英語の授業もあり、また礼儀作法など花嫁修業のような日課もありで、入学したことをうれしく思っておりました。しかしアメリカとの戦争が激しくなるにつれて学校生活はすべて、お国のため、戦争に勝つため、出征兵士の武運長久のため、銃後の守りのため等々、だんだん変わっていきました。

 勉強はどこへやら、英語もABCぐらいしか分かりません。毎日どんな勉強をしていたのか分かりません。ただ軍事用と出征兵士の留守宅用の勤労奉仕が主となる毎日になりました。季節により、稲刈り、麦刈りと出征兵士の留守宅へ奉仕に出向きました。町では高価で口にすることができなかったゆで卵をいただき、農家のお手伝いが楽しくなったことを記憶しております。ただ、本人は十分手伝ったつもりでしたが、町の中で育った15歳や16歳の娘が、農家の仕事の何が十分にできるでしょうか。農家の方々には迷惑だっただろうと思っております。

 校内では教室のミシンで軍服の補修などをした記憶があります。当時の徳島新聞だったか、定かではありませんが、その光景を取材した記事が掲載され、私の言葉も少し書き入れてありました。

 外出時には女性を相手に千人針をお願いしてまわりました。私もはっきりしませんが、白いさらし布に赤い糸で千個の玉をつくり、出来上がると兵隊さんの体に付けてもらい、武運を祈ることだったのかと思います。

 戦争も終期になると、敵が日本国土へ上陸して来たときを想定しての竹やり訓練、バケツリレー等々、校庭で行ったことを今考えると、バカみたいと一笑したいところですが、当時は真剣に軍から派遣されてきていた兵士の言葉通り従っていました。

 だんだん物資がなくなり、牛革の靴から豚革に代わり、それも手に入らなくなって赤い鼻緒の下駄(げた)での登校となりました。スカートも、木綿の絣(かすり)のもんぺになりました。

 昭和19年には徳島市内の軍需工場へ動員され、毎日ハンダ付けの仕事をしており、上司は軍人さんでした。空襲で工場が焼け、それ以降は何もなしでした。

 昭和20年3月に卒業式がありましたが、卒業証書をもらうのみの式。定かな記憶はありません。その証書も焼けてしまい、ただ小さい防空壕に入れておいた卒業写真が唯一の学校時代の写真として残っています。若かりし日の思い出として大切にしておきたいです。

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 記者が鈴江さんを訪ね、卒業写真を見せてもらいました。「母が防空壕に入れてくれて。残っている私のものはこれだけです」と鈴江さん。写真には今よりすこしふっくらした18歳の鈴江さんが写っていました。

 
後列中央が鈴江さん(当時は宮守さん)
当時を思い返す鈴江さん