11代将軍徳川家斉が「斉」の字を与えるという文書。宛名の松平弾正大弼は蜂須賀斉昌を指す(1809年、個人蔵、一部)

蜂須賀斉裕の肖像画(徳島城博物館蔵)

留学中に撮影された蜂須賀茂韶

 江戸後期の徳島藩主蜂須賀家は結婚や養子縁組によって徳川将軍家と親戚関係にあった。このため幕府に重んじられながらも多くの課題に直面。徳川家から養子で入った13代徳島藩主の斉裕(なりひろ)は象徴的な殿様で、明治維新前後の激動期、幕府を支持するかどうかで苦悩した。徳島城博物館で8月22日まで開催中の夏の企画展「蜂須賀三代」では、興味深い古文書や写真、系図50点が公開され、蜂須賀家がどのように生き抜いたかを探っている。

 焦点を当てたのは、封建制末期から明治初期にかけての殿様3人。太平を満喫した12代蜂須賀斉昌(なりまさ)、将軍家から初めて養子となった13代斉裕、藩の騒乱庚午(こうご)事変で挫折を味わった後に政治家、実業家になった14代茂韶(もちあき)。

 斉昌は「斉」の1字を11代将軍徳川家斉にもらった。企画展では、それを示す貴重な文書が展示される。

 斉昌の正室穠(ふさ)は大老井伊直弼(なおすけ)の姉。継室(後妻)は公家トップの鷹司政煕(まさひろ)の娘季(すえ)で、季は13代将軍家定の妻の姉でもある。斉昌には男子がおらず、11代将軍家斉の22男を養子にしている。それが後の13代藩主斉裕となった。

 斉裕は、ペリーが神奈川の浦賀に来た際、幕府から命じられて江戸鉄砲州・佃島を警護した。13代将軍家定と、14代将軍家茂のおじのため徳川家の信頼があつく、1862(文久2)年に幕府の軍隊トップ陸軍・海軍総裁に任命された。正室は、幕末の天皇を補佐し朝廷を主導した関白鷹司政通(まさみち)の娘だ。

 斉裕は幕府を支持する佐幕派につくか勤王派につくかで苦悩。子の茂韶や家臣の説得で勤王派の立場になり、陸軍・海軍総裁職を辞任した。しかし、斉裕は心労を重ね68(慶応4)年1月6日、徳島城で48歳で亡くなった。展示ではそんな斉裕の生涯をたどる。

 斉裕の最期をみとった徳島藩医関寛斎も紹介。二人の絆は強く、関は斉裕の命日には必ず墓参をした。

 斉裕の跡継ぎが茂韶で、徳島藩最後の14代藩主となった。茂韶は戊辰戦争で新政府軍の立場で徳島藩兵を派遣した。71(明治4)年、廃藩置県で東京移住後には、英オックスフォード大に留学している。

 帰国後に外交官となり、仏駐在特命全権公使を務め、東京府知事を経て、伊藤博文の跡を継いで貴族院議長、文部大臣になった。日本資本主義の祖とされる渋沢栄一と東京海上保険など企業の設立にも努めた。福沢諭吉は「門閥制度は親の仇(かたき)」を座右の銘にしていたが、茂韶の印象について「議長になり、国務大臣にも任ぜられて立派に一人前の人物」と評価している。茂韶の留学中の写真も紹介され興味深い。

 茂韶は、継室に15代将軍慶喜の兄慶篤(よしあつ)の娘随(より)子を迎え、さらに子の正韶(まさあき)の妻は慶喜の娘筆子を迎えた。明治になっても徳川家とのつながりが続いたことが分かる展示となっている。

 根津寿夫館長は「蜂須賀家は徳川家と縁を深めて重責を担うが、各藩主ごとに時代の波にもまれながら懸命に生き抜いている。放送中の大河ドラマでは、蜂須賀家と縁がある人物が登場しており、身近に感じられる」と話している。

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 8月8日の午後2時から展示解説。8月14日午後1時半から講演「近代日本社会の創造者 渋沢栄一をさぐる」(井上潤渋沢史料館長)、同15日午後1時半から講演「蜂須賀三代 幕末・明治編」(根津館長)がある。要申し込み、締め切りは8月4日。問い合わせは徳島城博物館、電話088(656)2525。