昨年、満州から母、姉たちと日本に引き揚げる様子を詳しく書いて送ってくれた徳島市の田中正代さん(76)が、今年は家族写真を寄せてくれました。父の出征前日に撮ったものだそうです。去年の投稿とともに紹介します。

 長女11歳、次女9歳、三女6歳、四女4歳、五女(私)は1歳。母は女子ばかり5人の子どもたちと中国満州より引き揚げ者として帰国。

 父は現地召集。赤紙の来た父は母と毛布でリュックサックを作り出す。長女、次女は紙幣をこよりにして、リュックの縫い目に縫い込む。日本に帰るときのためだ。

 慌ただしく出征の朝が来る。時間の迫る中、靴を履き終えた父は「こんな小さな子どもたちを置いて…」と絶句し、出征した。3カ月余りで終戦。

 

荒野を走り続けるトロッコ列車

 子ども5人を連れ、母は歩く。リュックを背に、五女を胸に抱き、ほかの子どもたちはそれぞれに持てるだけの物をリュックに詰め、港のある葫芦(ころ)島に向け、野宿したり、列車に乗ったり。列車と言ってもトロッコで屋根はない。燃料の石炭を積むために時々停車する。

 真っ暗闇の一晩を過ごす。雨だろうと雪だろうと屋根はない。暗闇の中、オオカミの遠ぼえが、トロッコの上をビュンビュン飛び越える。引き揚げ者でトロッコの中はすし詰め、ギュウギュウ詰め。

 何日も列車は荒野を走り続ける。ある朝、男の子がトロッコから落ちた。荷物を踏み台にして尿をしていたのだ。ゴトリとトロッコが動き出す。列車は止まらない。止めるすべもない。男児を荒野に残したまま。みんなただ、その子を見てるだけだ。死んだ赤ん坊を荒野に残して行く。オオカミの餌食になる。

 ある駅で降りる。また歩く。収容所まで、ゾロゾロ歩く。人買いが寄って来る。日本の女の子は高く売れる。母は子を死にもの狂いで死守。上の子らは頭を坊主にし、顔を汚して男服。

 道すがら石を投げられ、腐ったもの、汚物なども投げられる。お菓子を見せて男の子を連れ去る。持ち物を奪われる。市場を通ると籠の中に猿、鳥、犬。子どもまで売られていた。日本人の子だ。

収容所には1年余り ひたすら引き揚げ船を待つ

 収容所には1年余り。ひたすら引き揚げ船を待つ。いろんなうわさが流れる。「日本人を国に帰すな」「奴隷として働かせろ」。そのうちに船が出るとの知らせ。それは周恩来の発言「一般の国民には何の罪もない、日本への引き揚げ船を出す」

 船が出る知らせにみんな泣き出す。母は泣かなかった。ホッとした表情で「こんでお父さんに怒られへん」。5人姉妹はみな無事。

 何百何千の引き揚げ者。これほどの人たちが船に乗れるのか。不安と安堵(あんど)の疲れ切った顔ばかり。やっといよいよ船に乗り込む。暗い船の底。ここもギュウギュウ詰め。子どもたちも大勢乗っている。

 あちこちで子どもがぐずる、泣く。「うるさい!」「黙らせろ!」。みな疲れと不安の中、イライラの頂点。母はぐずる四女と細くて長い階段を甲板へ上る。真っ暗闇な海に四女はぐずる。「おなかがすいた」「足が痛い」。無理のないことだが…。暗い海に「怖い、怖い」。ギャーギャー泣く。母は途方に暮れ、「いっそこの子を海へ投げようか」。泣き疲れて眠った子を船底へ。

 船には大勢の子どもたちが乗っていたが、日本に着いたころには数えられるほどにいなくなっていた。いよいよ日本に近づいて来ると、みな甲板に出てぼんやりと見える列島の島影を見つめる。船が着く。降りると一人一人にお米のおにぎりが一個ずつ。

 母の実家は徳島大空襲にも焼けずに残っていた。商家で屋敷は広く、それにしても兄嫁にしてみると大変なことだっただろう。母もまた、子どもたちは親類やら知人らに預けられることに。つらさはどれほどか。長女、四女は残して。

新聞の引き揚げ者名簿を目を皿にして読む母

 母は欠かさず毎日、新聞の引き揚げ者名簿を目を皿にして読む。

 戦死の知らせが来る。英霊を迎えに徳島県庁へ5人の娘を連れて行く。県知事の原菊太郎さんは、母の肩に手を置き、「おまはん、5人もの子どもを無事によう連れて帰ったなあ。ご苦労だったなあ」。それでも母は涙ぐみもしない。「はい、今日はありがとうございました」。私は母の涙を見たことがない。残されたどの写真を見ても、笑顔で写っているものがないことに気づく。

 ある日、四女を連れて高松国税庁まで行き、中国から持ち帰ったお金を換金してもらうことに。列車には乗らず、四女をおんぶしたり歩かせたり。行きは歩きと野宿。同じ身の上の人も何人もおり、励まし合いながら。国政庁で手にしたのは期待した額の半分以下。とりあえず、列車に乗って帰る。

 ある日、散り散りになっている子どもを集め、父の墓に参り、徳島駅前の食事処で全員オムライスを食べる。夕方になって海へ。暗くなるまで遊ばせて、長女に「ここでみんなで死のう、死んでしもたらこんなつらい思いはせんでええ」。「お母さん、死んだらあかん。帰ろう」。もう一度あった。今度は吉野川で。

 母は90歳まで生きた。今は海を見下ろす墓で父と一緒に眠る。だが、その父の遺骨には満州荒野の石ころ一つ。

 終戦時に1歳だった田中さん。満州から帰国する道中のことについては、小さなころから母や姉たちに聞かされていたそうです。「昔から、集まったらそんな話をしていました。子どものときから聞いてきた話だから鮮烈に覚えています」

 母が懐深く抱え、日本まで持ち帰った写真。父が書き残した遺言状とともにコピーし、姉妹それぞれが持っているそうです。