助任川沿いに立つ幕末・明治の仁医、関寛斎の胸像と顕彰碑=徳島市中徳島町

 徳島城の外堀・助任川沿いの「中徳島河畔緑地」(徳島市中徳島町)に、フランス式軍服に身を包み、医学書を抱えた胸像が立っている。長髪をオールバックになでつけた堂々たる姿だ。〝阿波の赤ひげ”関寛斎(1830~1912年)である。

 現在の千葉県の農家に生まれた寛斎は、長崎でオランダ人医師ポンペに学び、西洋医学を修めた。1862年に徳島藩に招かれ、藩主の御典医に。幕末・維新の戊辰(ぼしん)戦争では徳島藩が官軍に加わったため、寛斎も従軍し、彰義隊攻撃や奥州戦争の野戦病院長を任された。

 だが、関寛斎の真価は、そうした経歴や肩書だけにあるのではないと思う。

 そのまま明治新政府に仕えていれば、高官となることは約束されていただろう。ところが寛斎は、そうした出世・栄達の誘いも断って徳島に戻り、現在の城東高校の敷地内に居を構えた。以来30年、市井の医者として診療を続けた。貧しい人からは治療費を一銭も受け取らず、無料で5700人に種痘を施したという。

 司馬遼太郎は『街道をゆく 阿波紀行』で〈寛斎は、仁者だった。医は仁術などというが、日本の医家の歴史のなかで、寛斎ほどの人は見ない〉と紹介している。

 晩年には驚くべき行動をとった。72歳のときに住み慣れた徳島を離れ、北海道開拓に向かう。寒冷地の陸別町で森林を切り開き、町の礎を築いた。82歳で死去。〈人生における使命意識がつよすぎ、安穏さをすてて出てゆくのである〉と司馬遼太郎は書いている。

 中徳島河畔緑地の胸像の横にある顕彰碑には、40年に及んだ徳島での暮らしを振り返った一首が刻まれている。「世の中をわたりくらべて今ぞ知る阿波の鳴門は浪風ぞ無き」。

〈2021・7・22〉