阿南市 鎌田武(92) 

 昭和20年(1945年)、旧制中学校(那賀農林学校)に在学していた当時には、座学はほとんどなく、毎日食糧増産や木炭製造などの農林業実習でした。ときには北の脇海岸で兵隊に交じって壕(ごう)掘りをすることもありましたし、出征兵士の家への勤労奉仕を何度も体験しました。何一つ小言を言うでなく、ひたすら頑張りました。

鎌田さんも入った実習中の写真

 那賀町和食の農家では初夏の太陽の下、麦刈りに数日、懸命に汗を流しました。夜は和食小学校講堂での合宿でした。風呂もなく、井戸水で体を拭き、食事はサトイモ。しかも、親芋の独特のえぐみが喉に広がってはしかくなり、夜もろくに眠れずに苦しみました。翌日の炎天下での麦刈りは睡眠不足の上に空腹。倒れそうになりながらも、疲れた体にむちを打って頑張りました。作業の後の昼食にいただいたそうめんのおいしかったこと。那賀川で捕った稚魚の干物で作っただし汁だそうで、その味は今も舌が懐かしく覚えています。

 終戦の数日前のこと。自宅から300メートルほどのところにある水田に、焼夷弾(しょういだん)らしきものが投下され、大きな穴ができました。底から泥水が勢いよく吹き上がっていました。近くの集会所2階の壁には無数の穴、柱には弾痕。その惨状が今なお、強烈に脳裏に焼き付いています。

 昭和20年8月15日も、農家への勤労奉仕のために早朝から弁当を腰につるして徒歩で約5キロ先の阿波福井駅に着いたときでした。「今日の作業は中止します」。すぐ地元の役場へ帰るように告げられ、不審な思いで桑野村役場へ行くと大勢が集まり、騒いでいました。

1945年8月15日の様子を伝える同年8月17日付の新聞

 玄関に「休戦」と張り紙があるのが目に入りました。まさか、お盆だから戦争を休む? それまでになかったことだけに理解できず、ぼんやりしていると、「『玉音放送』があります。静かに!」と男性の大声。不気味な雰囲気の中、耳をそばだてて聞きましたが、「敗戦」を即座に理解できず、動揺しました。急いで帰宅し、母に伝えたときの虚脱感は今なお、鮮明に覚えています。

 当時の戦況情報は戦利の作為的なものばかりで、ひたすら国民を扇動していました。そして、戦勝ニュースのたびに、旗行列や提灯(ちょうちん)行列を強行させられていました。日々、最悪の環境の中でも、「欲しがりません、勝つまでは!」と銃後の守りは当然のことと耐えました。国民をここまでに仕立てた当時の教育の怖さを、しみじみ知らされました。自分が教員になったのも、こんな思いがあったからだと思います。