歓声も拍手もない無観客の会場で、競技のほとんどが行われることになるとは招致が決まった8年前、誰が想像しただろうか。

 新型コロナウイルスの感染が急拡大するさなか、東京五輪がきょう開幕する。

 東京は緊急事態宣言下にあり、まさに異例の大会となる。祝祭ムードは乏しく、むしろ不安が大きい。

 選手らと外部の接触を遮断する「バブル方式」には穴が目立ち、選手らの感染が相次いでいる。クラスター(感染者集団)が発生した場合、大会続行が難しくなる恐れもある。

 何より求められるのは、大過なく大会が遂行されることだ。政府や組織委員会のスピーディーで実効性のある対応が問われる。

 1カ月ほど前、常識を疑うような発言があった。

 「開会式が始まれば、みんな全てを忘れて楽しむだろう」

 米国向け放送権を持つ米NBCユニバーサルの最高経営責任者が、コロナ禍での開催が不安視される中で放った言葉だが、政府や国際オリンピック委員会(IOC)など主催団体の本音を代弁しているのではないかと思わせた。

 大会の1年延期を主導した安倍晋三前首相は「完全な形での開催」を目指すとし、後を継いだ菅義偉首相は五輪開催を「ウイルスに打ち勝った証し」と強調した。だが、コロナ対策の不備や迷走から実現していない。それでも「安全、安心な大会を実現する」と言い張り、中止や再延期を求める声に耳を傾けることなく、開催へ突き進んだことを忘れるわけにはいかない。

 57年ぶり2度目の東京五輪を開く意義も分からないままだ。五輪に関する著作も多い作家沢木耕太郎さんは『オリンピア1996 冠(コロナ)〈廃墟の光〉』(新潮文庫)の解説に記している。

 「(五輪誘致のため)苦し紛れに東日本大震災からの『復興五輪』などという題目が生み出されたが、開催地を仙台にするというのならともかく、東京というのではまったく整合性がないことは歴然としており、いつの間にか霧散してしまった。次にはコンパクトでエコロジカルな大会にするというキャッチフレーズが叫ばれたが、かつて類を見ない巨額の費用がつぎ込まれることになって、それも破綻した...このオリンピックに『大義』は存在しない」

 大義は脇に追いやられ、幅を利かせたのが商業主義である。思い起こせば、IOCに巨額を拠出して放送権を得たNBCの意向で、過酷な暑さを無視して真夏の開催が決まったとされる。「アスリートファースト(選手第一)」が名ばかりだったのは明らかだ。

 五輪の理念もかすんでしまった。

 開幕直前、開会式を担当する音楽家が辞任し、演出家が解任された。過去のいじめやユダヤ人大量虐殺をコントの題材にしたことが発覚したためだ。女性蔑視発言、女性タレントの容姿侮辱といった問題も起きている。組織委が多様性や人権を軽んじているからにほかならない。

 ここに至って東京五輪に意義を見いだすとすれば、スポーツの力を実感することだろう。

 大会には世界から約1万1千人のアスリートが集い、日本選手団は580人を超えて過去最多となる。

 中でも、徳島ゆかりの体操女子の畠田瞳選手と陸上男子走り幅跳びの津波響樹(つは・ひびき)選手には、鍛錬の成果を存分に発揮してほしい。徳島からもエールを送りたい。

 徳島を事前合宿地に選んだネパールの競泳、ドイツのハンドボールとカヌーの選手がどんな活躍を見せるかも気になるところだ。

 逆境を乗り越えて舞台に立つ選手たちの躍動する姿が、コロナ禍の閉塞(へいそく)感を振り払ってくれる大会になることを願う。