県春季大会決勝の池田戦で先制する阿南工。6―3で快勝し県大会初優勝を飾った=1976年、徳島市の旧蔵本球場

 第99回全国高校野球選手権徳島大会が8日、開幕する。阿南工は来春の学校統合に伴い、現校名では最後の夏となる。甲子園出場はないが、1976年には春の県大会を制した。部史を振り返り、ナインを支えてきたOBや住民の思いを伝える。 

 創部は開校した62年。軟式野球部として発足した。バックネットが完成した63年に硬式へ移行したが、グラウンドは石ころだらけで、雑草に覆い尽くされていた。1期生の野村武宏(70)=阿南市下大野町=は「根の深いアシが生え、河原のようだった。野球どころではなかった」と、思うように練習できなかった当時を思い起こす。

 野村が最も印象に残っている出来事は、尾崎将司投手(現プロゴルファー)を擁し、64年の選抜大会を制した海南との練習試合だ。「ジャンボ(尾崎)の球は速いというより重たかった。砲丸が飛んでくるようだった」

 石が転がり、中堅に大きな水たまりのある劣悪なグラウンド状況でも、海南を目当てに他校の女子生徒が大勢訪れ、野村は「スターになった気分を味わえた」と振り返る。

 元米大リーガー川上憲伸を育てたことで知られる坂東徹(78)=小松島市間新田町=が66年、監督に就くと野球部は軌道に乗った。中学時代に名の知れた選手はほとんどいなかったが、守備を徹底的に鍛え、県大会で準々決勝に残り始める。

 坂東が「たまたま有望な1年生が多く入った」と言う74年夏の県大会。1年生で唯一レギュラーになった吉川伸二(58)=阿南市羽ノ浦町、会社員=が「雲の上のような存在だった」と述懐する徳島商に競り勝つ。高知県代表と甲子園切符を争う南四国大会に出場し、ヤクルト現チーフ打撃コーチの杉村繁がいた高知と対戦した。翌年の春に2度目の甲子園優勝を果たす名門を相手に1―3で敗れたが、県外の大会に初めて駒を進めた同校が最も甲子園に近づいた瞬間だった。

 吉川が主将となった76年は9人全員に本塁打を放つ力があり、選抜大会に出場した徳島商が不在の県春季大会決勝で池田を破り優勝。四国大会出場権を争う徳島商とのチャレンジマッチでは、2番手投手がけがで投げられない不運に見舞われ、先発投手に疲れが出た終盤に逆転を許し、大敗を喫した。

 以降の県大会で決勝に進むことはなかったが、県高校野球史に名を残す選手が現れた。80年春は富永洋和が10打席連続安打を美馬商と城南戦で放ち、2001年には日下陽介が夏としては最多となる3打席連続本塁打を城南戦でマークした。

 1999年には條辺剛が巨人からドラフト5位で指名され、同校初のプロ野球選手が誕生した。豪腕投手を擁したこの年の夏は部員数が40人を超え、甲子園出場の機運も高まってOB会が発足。3回戦で選抜出場の鳴門工と対戦し、元阪神の渡辺亮と投げ合ったが、延長十回の末、1―5で力尽きた。

 OB会の尾﨑正則会長(69)=同市中林町=は「甲子園に出てもOB会がなくては困るので、慌ててつくった。おかげでいい夢を見させてもらった」と懐かしんだ。