松茂町 長岡由子(73)

 母が生前、折々に話していたことの記憶をたぐり寄せてみた。

 1945年7月4日。あの日、母は徳島医学専門学校付属病院(現・徳島大学病院)にいた。もうかなり病状が悪化していた叔父に付き添って、東祖谷山村から出て来ていたのだ。母はこのとき20歳くらいだったか。15歳ごろに跡継ぎが戦死した叔父の養女として迎えられていた。

 診察後、薬を受け取った叔父はすぐ帰ろうとした。母は言った。「めったに徳島には来れん。丸新デパートで買い物をして今夜は泊まりたい」。すると叔父は気色ばんで、「ミイよ。こんな日に徳島でうろうろしとったら、焼夷弾(しょういだん)にやられて焼け死ぬぞ」。母はしぶしぶ叔父と汽車に乗った。

 汽車は日暮れに池田駅に着いた。いつもの旅館に泊まった。未明、叔父の声で目が覚めた。「ミイよ。皆外に出とるぞ。行かんか」。2人は泊まり客や近所の人たちが一塊に集まっている一角へ近づいた。暗がりの中で、「あれ見い」と人々が指さす彼方(かなた)に目をやった。数時間前まで滞在していた徳島市の上空だ。真夜中なのに、真っ赤に燃えているのが分かった。「市内はもう全滅じゃのう」という誰かの声を聞いて、母は「あのとき泊まっていたら」と震えが止まらなかった。後で聞いた話では、佐古の辺りまで焼け野原となったが、付属病院は幸い焼けずにすんだという。

 祖谷の隣の家からは、2人の息子さんが満州に出征していた。1人が、一時帰省していると聞き、母はねぎらいに行った。そのときはまだ戦局が不穏ではなかったらしく、その息子さんは、「ミイよ。これ知っとるか」と何やら黒い粉を母の手のひらに少し載せて、「なめてみい」と言った。なめたら苦かったので、「これ、コーヒーって言うんよ。お湯を入れて飲むんよ」と母が言うと、「ミイは知っとったんか」と高笑いしたそうだ。終戦になったが、2人の息子さんはとうとう戦地から帰らなかったと聞く。

 1945年8月15日、終戦を迎えた。その翌年、私の父となる人は満州から無事帰還した。父は長年勤めた大阪の呉服問屋に復職するつもりで、3日の休みをもらい祖谷の親元に帰省した。ときを置かずに親戚が来て、母との縁談を2時間で強引に取り付けた。この話に父の親が乗り気で、「この話が聞けんのなら、もう親でも子でもない。今すぐ縁を切って出て行け」と無理やり即答を迫ったという。「せっかく生きて帰ってきたのに、親とは断絶したくない」と父は渋々承諾した。

 当時は形だけのお見合いをして縁談が成立していたが、それもなく、結婚式を迎えた。そういう時代だった。そう母は笑って話してくれた。自分の意思は蚊帳の外だった人生を受け入れて生きた父母たちだったが、「お前たち4人が生まれてくれて幸せだった」と後に聞かされて安堵(あんど)した。