6日に広島市で開かれる平和記念式典に、鳴門市の黒木律子さん(68)が徳島県の遺族代表として参加する。徳島からの式典参加は8年ぶり。  
 黒木さんの父親・増田晃さん(享年95歳)は、学生の頃、広島市で被爆した。増田さんが家族に被爆体験を直接話すことはなかったが、被爆当時の記憶を記したものを渡していた。式典を前に、黒木さんに父親の被爆体験と自身の思いを聞いた。

公園内にある原爆死没者慰霊碑。折り鶴や花が供えられている=8月4日、広島市の平和記念公園

 

進学で広島へ 下宿先で被爆

増田さんは鳴門市出身。旧制中学校を卒業後、広島市の高等師範学校に進学した。20歳の時、爆心地から1.5キロの下宿先で被爆。ものすごい光と爆風で吹き飛ばされ、気が付いた時には家の下敷きで身動きが取れなくなっていた。崩れた家の隙間から足首が出ていたのを近所のおばさんが見つけてくれて、助け出された。家の下敷きになっていたのでやけどをせずに済んだが、足や背中に木が突き刺さりひどく出血していた。近所の人と一緒に比治山方面に向かって逃げていたが、そのうち貧血で歩けなくなり、四つんばいでしか動けなくなった。あちこちから助けてくれという声が聞こえる中、通りかかった負傷者用のトラックに乗せられて似島に収容された。
似島では自分より大けがを負った人が大勢いた。傷口にウジがわいたが、治療する薬はない。誰かに覚えていてほしかったのだろうか、住所と名前を繰り返し言っている人がいた。急に黙ったなと思ったら亡くなっていた。死体は建物のすぐ側で焼かれていた。
数日後に松葉づえを突いた同級生が探しに来てくれた。自分の名前を呼ばれ、心の底から「おるぞ!」と叫んだ時が一番うれしかった。下宿先に戻り、助けてくれた近所の人にお礼を言おうと訪ねたが、亡くなったと知った。下宿先で服やお金を借りて、徳島に帰った。死んだように眠り、数日後、放送で戦争が終わったと知った。
 

「困難な中で命をつないでくれた」

 父が80歳を過ぎた頃に、パソコンで自分の経験を文書にまとめプリントアウトした物を渡してくれた。口では言わないが、残しておかなければいけないし伝えておきたいという気持ちがあったのだろう。人に言いたくないような気持ちも書いてあった。読んでいて、すごいなと。何十年も前のことを覚えているということは、やっぱり忘れられないことだったんだなと思う。大勢の人が亡くなり困難な中でもよく命をつないでくれたなと思う。

 これまでは何の気なしに「8月6日だな」と思っていたが、今回の式典に参加することになり、改めて父の記録などを思い返してみると胸が詰まる。20歳で被爆し、それを抱えて生きてきた。父以外の皆さんも、いろんな思いをされてきたのだなと思う。
戦争は絶対にしてはいけないことだし、経験もしたくない。子どもたちや家族以外の人にも経験してほしくない。どれだけ悲惨でどれだけつらいのか、伝えるのがだんだん難しくなってくる。言葉にするのが難しいが、皆さんの戦争に対する思いと一緒だと思う。
 

 平和記念式典は、6日午前8時から開かれる。新型コロナウイルス感染防止のため、昨年に引き続き一般席は設けず、規模を縮小して行う。
 式典の模様は、広島市のホームページから確認できる。
 ⇨https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/atomicbomb-peace/175816.html

6日の式典のためテントが張られた会場=広島市の平和記念公園