8月6日に広島に原子爆弾が投下されて、今年で76年。広島市では当時の体験や平和への思いを次世代に引き継ごうと、被爆者が「被爆体験証言者」となり活動している。8歳で被爆し、2019年から証言者の活動を始めた八幡照子さんに自身の体験を聞いた。
 

爆心地と当時住んでいた場所を説明する八幡さん=広島市内

 今は西広島駅になっていますが、当時は己斐駅と呼ばれていた所に私たちは住んでいました。己斐橋というのがあってそのたもとに住んでいて、爆心地から私の自宅まで2.5キロ離れていました。
 

太平洋戦争の始まり 学校で敵を倒す訓練

戦前に撮られた八幡さん家族の写真=1941年

 ある朝、父が「大変なことになった」と言ったんですね。普段見たこともないような不安な表情とかすれた声を、今でも覚えています。その日、1941年12月8日、日本がハワイの真珠湾を攻撃して戦争が始まりました。今、太平洋戦争の歴史をたどると、あまりにも無謀な戦いであり、悲しみと驚きに打ち震える思いがします。なぜなら日本が勝利していたのはわずか半年間で、その後形勢が逆転して日本が負けていくわけです。

 そんな中で1944年4月、私は広島市の己斐国民学校に入学しました。「みんなで勉強うれしいな、国民学校1年生」と声を張り上げて歌った音楽の時間、初めての遠足。お弁当箱の半分にうずら豆が入ったご飯、半分にはサツマイモを蒸した物が入っていたので、とってもうれしかったのを覚えています。当時は戦争によって食料が不足していて、遠足のお弁当にも影響を及ぼしていました。すいとんという団子汁や少しのお米に野菜や水をたくさん入れて炊いた雑炊が主食でした。私はいつもお腹をすかせていました。
 ラジオからは毎日軍艦マーチが流れ、「大本営発表!」と勇ましい声が響きます。大本営というのは、陸軍と海軍の全体を指揮する日本の総本部です。その発表ですからみんな信じるわけですね。「敵航空母艦撃沈せり、わが方に大なる損害なし」といつも日本の勝利を伝えていました。これは虚偽だったのですが、国民の多くは「欲しがりません、勝つまでは」を合言葉に、日本の勝利を信じていました。上級生は毎日、朝礼の後に歌いながら行進していました。「命一つとかけがえに100人、1000人切ってやる」。どういう意味かお分かりでしょうか。竹の先にやりを付けたような武器で命を捨ててでも、敵を100人でも1000人でも切ってやるということを小学校の上級生に教えていました。そんな怖い時代でした。
 

夏休みの朝に自宅で被爆 「空全体が巨大な蛍光灯」

 そんな中で迎えたあの日。1945年8月6日。空は晴れて爽やかな朝でした。今日みたいに晴れて暑い朝でした。私は小学2年生の夏休みで、広島市の自宅には曽祖母と祖母、それから両親と姉、私、弟2人の8人がいました。皆で朝食を食べ終わり、私は家に行こうと裏庭に降り立った時です。ピカッと空が光り、びっくりしました。空全体が巨大な蛍光灯になったようでした。私は普段練習していたように目と鼻と耳をふさいで地面に伏せようとし、そのまま意識を失いました。

 何が起きたというのでしょう。原子爆弾は、35万人が住む広島市の上空600メートルの所で爆発しました。そして空中に突如現れた火の玉の中心温度は、数百万度に達したといわれます。火の玉は直径200メートルの大きさに急膨張し、強烈な熱戦と放射線が街全体に広がりました。また爆発の数秒後に放射された強烈な熱戦によって焼かれた人たちは重度のやけどを負い、多くの人たちが亡くなりました。爆心地から直径3キロ以内では、電柱や木材が黒焦げになりました。爆発の瞬間、周囲の空気が急膨張して衝撃波が起こり、その後すさまじい爆風が吹き抜けました。ものすごい力の爆風が吹き抜けたんですね。爆心地から2キロ以内では、木造家屋はほとんどが倒壊し、鉄筋コンクリートの建物は、窓枠や内部が吹き飛びました。人々は爆風に吹き飛ばされて即死したり、建物の下敷きになって圧死したりしました。建物の下敷きになって動けず、生きながら焼かれた人もたくさんいます。「お母ちゃん、お母ちゃん熱いよ。お手々が焼けるよ」と言いながら、やがて声が聞こえなくなり亡くなった人。親を助けられなかった人、子供を助けられなかった人。地獄のような中でたくさんの人が焼け死にました。
 

母「みんなで死のう」 一枚の布団に潜り込み

八幡さんの体験を聞いて高校生が書いた絵

 「みんなここに集まりなさい!」。意識がもうろうとする中、母の叫び声を聞きました。気が付くと、家の中は土壁が落ちて煙がもうもうと舞っています。爆風で吹き飛んだ廊下のガラスが倒れたふすまに矢のように刺さっていました。食器は散乱し、家の中はひっくり返っていました。母の声を頼りにみんながはい出して集まると、母が押し入れからさっと大きな布団を出して、みんなに掛けました。「みんなで死のう、みんな一緒よ!」。母はただならぬものを感じたのでしょう。こんな大爆弾が来たらもう助からないと思ったんですね。父は壊れた階段を駆け上がって、飛ばされていた曽祖母をおんぶして降りてきました。みんなで1枚の布団に潜り込み肩寄せ合った時、家族の絆、家族の温もりを子ども心に感じたことを今も覚えています。母の背中はガラスが刺さって血だらけになっていました。おばあちゃんも頭から血を流してみんなけがをしていました。私は自分では気付きませんでしたが、頭から流れた血で顔がただれていたようで、母は顔がつぶれたのかとびっくりして血を拭き取ってくれました。今もちょうど判を押したような傷跡が残っています。自分では気が付かないほど深い傷を負っていました。
 

黒い雨 皮膚がただれ幽霊のように歩く人々

 そのうち「火災発生!退避、退避」と叫びながら男の人が走って来ました。あちこちで火災が起きています。外に出ると異様な静けさでした。みんな逃げた後でした。防空壕(ごう)はいっぱいで入れず、山の方に逃げていきました。山裾では、10人ぐらいの兵隊さんが倒れています。大やけどを負って半身がずるむけになっていました。「水くれ、水くれ」と言う人たちに「水飲んだら死ぬぞ」と誰かが叱っています。そんな人たちの間をかき分け、山の方に逃げました。
しばらく山の方にいましたが、空が暗くなったかと思うと、大粒の雨が降ってきました。白い服が黒くなるほどの雨で、やがて叩きつけるような土砂降りになりました。雨宿りもできず、私たちは河原の方に戻ることにしました。山から降りて来ると、向こうから橋を渡ってくる人々を見て足がすくみました。髪は逆立ち服ははぎ取られ、焼けた腕の皮膚がずるむけで垂れ下がっていました。ただれた皮膚と足を引きずりうめきながら、どんどん橋を渡って逃げてきます。もう本当に幽霊の行列のようでした。

 そのうち親戚が訪ねてきて「今日は寝る所がないだろうから家に来なさい」と言ってくれたので、爆心地からちょうど3キロぐらいの場所に避難しました。川の音やひぐらしの鳴く声がしきりに聞こえてきました。夜になると、近所の人がおにぎりを持って訪ねて来ました。お腹がぺこぺこだったので、真っ白いおにぎりがずらりと並んでいるのを見てうれしかった。今でも、白いご飯を食べられる幸せを身にしみて感じます。
 夜になり、避難先から市街地を見ると、夜空を焦がすように燃えています。火の海が帯のように続き、一晩中燃え続けました。今でもあの情景が目に浮かび、あの中で生きながら亡くなった人がたくさんいると思うといたたまれない思いがします。
 

救護所の学校で見た光景 死体の焼ける臭い

 8月9日になって私たちの己斐国民学校に救護所ができたと聞きつけた父が、けががひどかった私を連れて行ってくれました。校門を入ると、悲鳴ともうめき声ともつかないざわめきでいっぱいでした。やけどをした人たちが座り込んだりうずくまったりしていました。治療を受けるために長い行列ができていました。父が列に並んでいる間、私は教室を見て回りました。教室にも廊下にも、大やけどを負った人たちがぎっちりと横たわっています。背中がずるむけの人は伏せたりかがんだりしていて、火膨れで顔が腫れ上がり、目は開いていませんでした。「お母ちゃん」と泣き叫ぶ人、死んだように横たわる人。たくさんの負傷者がいました。

 夏ですから、亡くなった人はすぐ傷みます。間に合わせの担架に乗せられて、運動場の方に運ばれていくんです。運動場には7カ所ほど穴が掘られて、そこに放り込むようにして荼毘(だび)に付されます。炎がものすごい勢いで上がり、黒い煙が立ちこめ、人を焼く異臭が学校中を覆っていました。私は怖いとか気持ち悪いとか悲しいとか、何の感情もなくその光景を見ていました。校門近くには机が出されて、はがきぐらいの大きさの袋が並べられていました。食べ物もなくお腹がペコペコだった私は、お菓子を配っているのだと思って近づいていきました。そしてがっかりしました。なんと袋の中身は焼かれた骨だったんです。誰の骨か分からないがせめてもの供養に、と思ってもらって帰ったと、後になって聞きました。
 

学校に行かず”建物疎開” 多くの子どもが犠牲に

 建物疎開で犠牲になった小中学生が多かったと聞きます。建物疎開というのは、空襲で街が焼かれた時に類焼しないよう、密集した家を壊して街の真ん中を空き地にする作業です。男手は皆戦争に取られているので、児童生徒は毎日学校に行くこともなく、現地集合で建物疎開を一生懸命やっていました。軍事工場で部品を作ることもしていました。勤労学生が約8000人いた中で6000人以上が犠牲になりました。
 溢れる夢を秘めて一生懸命時代に耐えてきた子供たち。どんなに苦しかったか、どんなに生きたかったかと思います。生きたくても生きたくても、生きられない人がいたんです。本当に一瞬のうちに全てを失いました。原爆が投下された年に亡くなった人は、35万人いた中で14万人に上ると記録されています。
 

「後遺症じゃないか」 何かあるたびに不安

 原爆の被害の特質は、普通の爆弾では発生しない大量の放射線が人々に深刻な被害を与えるということですね。初期放射線といって、1キロ以内にいた多くの人が、数日のうちに亡くなりました。また原子爆弾は長時間にわたり残留放射線という物も残して、深刻な被害を与えます。私の友人は被爆から16年たったある日、両手に斑点ができて高熱も出て、胸は鉛を焼いているような苦しみに遭いました。お医者さんから急性白血病と診断され、その人は生きようと一生懸命頑張ったんですが、翌年に25歳で亡くなりました。本当に長期にわたって原爆は障害を与え、今も苦しんでいる被爆者はたくさんいます。私も70歳を過ぎてたくさん病気になりましたが、そのたびに「これは後遺症じゃないか」と思って不安になります。
 

「被爆体験を伝えて世界に警鐘を鳴らす」 今を生きる私にできること

原爆の残酷さを訴える八幡さん=広島市内

 2013年、被爆者としての活動の一環で、100万人以上のユダヤ人が虐殺されたポーランドのアウシュビッツ強制収容所に行きました。生き残った人の経験談を聞き、広島の原爆と重なりました。私は改めて、戦争の残酷さや醜さ、戦争は人間の仕業であるということを実感しました。地球には美しい国や空や海があり、温かい人々がいるのになぜ戦いが起きるのでしょうか。核兵器を保有し威嚇するなんて、本当に愚かなことです。国と国との欲求や価値観の対立を権力や武力で解決するのではなく、あくまでも対話を重ねて解決していかなければならないと思います。私たちはこの広い地球に生まれ合わせ、国や言葉は異なっても皆同じ時代を生きています。今1発の核兵器が使われたとしたら、人類は滅亡します。被爆体験や実相を伝えて世界に警鐘を鳴らし続けることが、今を生きる私のできることだと信じています。

動画はこちら⇨https://youtu.be/n0npsrIpmb4