徳島市 樫本恭子(85)

 7月4日。私は防空頭巾をかぶって下駄(げた)ばきで走っていた。土手の一角に家族7人がそろい、遠くの建物が焼けているのを見たりしていたが、頭上で火花が落ち出し、「この場所も危ない」と土手のすぐ下にある用水池に飛び込んだ。弟と姉と3人で手をつなぎ合って、泥水の中で首だけ出して上を見ていた。下駄の片方が池の沼地にのめり込む。頭上からは火花が散って落ちてくる。体がふるえ、「止めて!」と泣きながら姉に叫んでいた。

 そのとき、母の体が大変なことになっているなどまったく知らなかった。母の左足のひざ下に焼夷弾(しょういだん)が当たり、吹っ飛んでしまっていた。兄は暗い土手で、飛んだ足を探していたという。

 戦火もやみ、夜が明けだした。家に着くと、学校に行くよう言われて走って行った。母はベッドに寝ていた。母は痛みの中、子ども一人一人に話をした。7歳の弟のことが気がかりだったのか、私に「よく見てやってくれ」と言った。

 部屋を出て、廊下を歩いた。昨日まで教室だった場所。机や椅子は高く積み上げられ、床の上で負傷した人たちが泣いたり、うめいたり、汚物があったりもした。うなる声が恐ろしく、9歳の私はもう逃げ出していた。

 夕方になり、母を担架に乗せた。前の棒を兄が、後を父が持ってみなそろって歩き出した。家に帰る道ではない方へ、担架は行く。前の棒の先に取り付けてある小さなちょうちんが揺れているのを、見えなくなるまで眺めていた。翌日の夕方遅く、二人は帰って来たが、何も話をしてくれなかった。