小中高校時代を徳島市で過ごした沖西慶子さん(56)=広島市在住、ビオラ奏者=は、広島市の被爆体験伝承者であり、長崎市の家族証言者としても活動している。長崎市で被爆した沖西さんの母素子さん(86)の被爆体験を語ってもらった。

母素子さんの体験を語る沖西さん=広島市内

小学5年生まで長崎市に居住 病気がきっかけで被爆体験を語り継ぐように

 私は小学校5年生まで長崎市に住んでいました。小学校1年生の時、学校から原爆についての本を渡され、毎年、原爆資料館に行きました。資料館の写真や展示物が怖くて、家に帰っても夜は眠れませんでした。原爆は怖いものという思いが強くなり、できるだけ原爆の話題に触れないようにしてきました。
 そんな私がなぜ被爆証言者になったのか、それは2008年に起きたことがきっかけでした。ある日突然声が出なくなり、病院に行きました。検査を受けると、甲状腺の病気で手術を受けなくてはならないので家族を連れて来てください、と言われました。後日母と一緒に病院に行くと、主治医の先生は「検査の結果、甲状腺がんでした。入院して手術をしなければいけません」と告げました。私は驚き、不安でいっぱいになりました。すると母が「それは私が被爆者だからですか」と質問しました。私は、母の予想外の質問に「お母さん、何言ってるのよ。そんなわけないじゃない」と心の中で思いました。ところが主治医は「一般的にはその可能性が高いといわれています。絶対とは言い切れませんが」と答え、母の考えを否定しませんでした。私はその主治医の答えにショックを受けました。「原爆からもう何十年もたっているのに、なぜ今その病気が私に?」と疑問が深まるばかりでした。その年、10時間の大手術を受けました。生まれて初めての手術でした。喉に穴を開けたため、声を出すことができず、しばらくは筆談で生活しました。首の神経を切ったため後遺症が残り、今でも毎日痛みが続いています。二つある声帯のうち、片方は完全に止まっています。翌年に再発して2回目の手術、そして被爆70年の2015年に3回目の手術を受けました。今も定期的に検査を受けています。

 私は主治医が言った「絶対とは言い切れませんが」という言葉が、ずっと心に引っ掛かっていました。「絶対と言い切れないということは、もしかしたら原爆のせいではないということが分かるかもしれない」と思い、2回目の再発の後、広島大の原爆医科学研究所の公開講座に通い、勉強を始めました。そこで勉強をするうちに、自分は原爆について知らないことが多いということに気付きました。怖くて、子ども時代に避けてきたからです。私は原爆についての本や体験談、写真集などを読み始めました。そして、この事実は伝えられる人が伝えていかなければならないと思いました。何かに導かれるように被爆体験伝承者になり、家族証言者となりました。
 

小学校5年生だった素子さん いとこたちとにぎやかな暮らし

 本題の原爆の話に入ります。1945年8月6日午前8時15分。米国のエノラ・ゲイという飛行機から世界で初めて広島に原爆が落とされました。その8月に長崎で起こった私の母と家族の話をします。
 母は小学校5年生でした。名前は素子といいます。母は1歳の時に母親を亡くし、父親の姉である叔母が実の子のように育ててくれました。高台にある母と叔母の家には、いとこの高原忠三、その弟と妹の、6人が一緒に住んでいました。いとこたちは長崎市内から100キロ離れた五島列島の出身で、長崎市内の学校に通うために母の家に同居していました。年齢が近い母といとこたちはきょうだいのように暮らしていました。戦争中で食べ物が手に入りにくい時期でしたが、忠三兄さんはたまに友達の家からおやつをもらうと、自分は食べずに持って帰り、家族に内緒でこっそり母にあげていました。母は優しい忠三兄さんが大好きで、「忠兄さん」と呼んで慕っていました。忠兄さんは私にとってはおじさんですが、私が生まれる前に原爆で亡くなったので、会ったことがありません。なので、ここでは母の思い出通り、忠兄さんと呼ぶことにします。

 忠兄さんは毎朝、暗いうちから出掛けます。家族はまだ寝ていますが、いつも母だけは起きて「いってらっしゃい」とお見送りをしていました。忠兄さんは市内の学校を卒業して、今の長崎大学に合格しました。しかし、戦争の影響で入学式が延期され、式が行われたのは7月31日でした。次の日の8月1日から学徒動員となって、家から遠い長崎兵器製作所もりまち?工場という兵器を作る工場へ通うことになりました。戦争中は大人の男性が戦場などに駆り出され、人手不足になっていました。その人手不足を補うために、12歳以上の生徒たちが学徒動員と呼ばれ、大人に変わって工場などに働きに行かされました。カランコロンとげたの大きな音をさせながら、忠兄さんは工場まで歩いて通いました。.仕事が終わって家に帰ったら、「若鷲の歌」というのをよく歌っていました。母は忠兄さんが歌っているのをよく聞いていたので、この曲をすっかり覚えていました。
 

8月9日 広島と異なる原爆が長崎に投下

 原爆投下前日の8月8日、忠兄さんのお父さんとお姉さんが五島から米や魚、野菜などの食料を届けに来てくれました。9日の朝、忠兄さんは眠いから行きたくないと言っていましたが、すぐに気持ちを切り替えて「行ってきます」といつものように家を出て行きました。忠兄さんのお姉さんは親戚のお見舞いに出掛けて、家には6人が残っていました。しばらくすると警戒警報が鳴り、子どもは防空ごうに入るように言われて、母は隣の男の子と2人で入りました。警報が解除され家に戻り、母は昼ご飯の準備のため、しちりんに火をおこしてやかんをかけていたら、裏庭から飛行機の音が聞こえてきました。慌てて家の中に逃げ込むと、叔母が三角に立ててある畳の中に引っ張って入れてくれました。同時に青い光がピカッと光って、ドーン!と大きな音がしました。近くに爆弾が落ちたのかなと思いました。しばらくして外に出てみると、庭にあった大きなガラスが全部割れ、坂の下の方にあった小屋がぺちゃんこにつぶれていました。爆弾が近くに落ちたはずなのに、近所はどこも燃えておらず「変だな」と思い、町の方を見ると、あちらこちらが燃えていました。

 1945年8月9日、午前11時2分。米国のボックスカーという飛行機から長崎に投下された原爆がさく裂しました。広島に落とされた原爆にはウランという物質が使われていましたが、長崎の原爆にはプルトニウムという物質が使われました。米国軍は2種類の異なる物質で作った原爆を広島と長崎に落としたのです。原子爆弾の空中の爆発点のことを爆心、その真下の地点のことを爆心地といいます。爆心は松山町、現在の公園の上空約500メートルで、原爆は目もくらむような強い光を出して爆発し、小さな太陽のような火の玉を作りました。火の玉の中心温度はセ氏数百万度で、爆心地の地面の温度は3、4千度になりました。鉄が溶ける温度が約1500度なので、その倍以上の高温です。爆心地近くで高温の熱線によって焼かれたたくさんの人々は、重度のやけどを負って死亡しました。

爆心地から1・5キロ 忠兄さんは

 忠兄さんがいた工場は、爆心地から1・5キロでした。その時のことを、忠兄さんと同じ工場で働いていた友達が後に書いていました。友達は工場の1階、忠兄さんは2階で働いていました。

『強烈なオレンジ色の光線に一瞬目がくらみ、黄色い煙と爆風に私は机の下に潜り込んだ。ガラガラとものすごい音を立てて落ちてくる天井、降り注ぐガラスにおびえながら、じっと静まるのを待った。私の周りはみるみるうちに埋まっていった。近くにいた人はどうなっているのか全く分からない。不安に駆られパニック状態の頭の中では「爆弾だ、それも強烈な、そうだ6日に広島に投下された新型爆弾と同じ物ではないか」といろいろな不安が駆け巡る。しばらくして暗い中から小さな光が差し込んできた。「ああ助かった。早くここから脱出しなければ」と焦りながら、頭の上に落ちてきて積もった物をかき分け、やっと外に出た。右腕から血が出ている。一歩外に出て、私は驚いた。さっきまで建っていた工場が崩れて、がれきの山になっている。まぶしい太陽の下には、車も人も見当たらない。全くの無人地帯である。骨だけになった天井の鉄骨が曲がりくねっていて、鋭く切れた鉄板が次々に落ちてくる。友達の忠三君がいる建物の方は火の海で、助けに行ける状況じゃない。どうしているのかと気に掛かる。しばらくして私は家に帰ると、今にも崩れそうな鉄板の下に女学生が3人、廃材と機械に挟まれて動けなくなっていた。すぐにがれきの山を乗り越えて助け出し、彼女たちは肩を組み合って避難所に向かった。私は休む間もなく倉庫に戻り、道具を持って再び崩れた現場に急いだ。コンクリートの下から助けを求める声があちこちから聞こえてきたからである。軽傷の人と2人で分厚いコンクリートを砕いて脱出口を作る。時間がたつのを忘れていたら、空腹と重労働で疲れ切ってしまった。中断して倉庫の隣の食堂に行く。幸いにも食料を見つけて水で口に流し込む。再度戻ろうとした時、いきなり私の足元に人が倒れ込んできた。一瞬私は声も出ず、その人をじっと見た。全身が血だらけで、頭の皮が顔にぶら下がり、ひどい姿だった。その人はすぐに亡くなった。ぞっとして足がすくみ、しばらく動けなかった。さっきまで無人の工場だったのに、どこに人がいたのか。服が溶けてふらふら歩く人、上半身が真っ黒で目が飛び出して「水を、水を」と言う人。両手の皮膚がぶら下がり、全身やけどで男女の区別が付かない人。黙々と、またぶつぶつとつぶやき歩いている負傷者の群れ。地獄を見るようで、私自身「助けてくれ」と叫びたい思いでいっぱいだった』
 

帰ってこなかった忠兄さん 工場の灰をつぼに入れて持ち帰り

 その頃、自宅にいた母は、夕方暗くなる前に隣の家の男の子とまた防空ごうに入りました。大人は家に残りましたが、子どもは防空ごうに泊まりました。夜になると、山と山の間にたくさんの火の玉がシュッ、シュッと音を立てて速いスピードで横切っていきました。子ども2人で一つ二つと数えていましたが、あまりにも数が多いため途中で数えるのをやめました。その日、忠兄さんは家に帰ってきませんでした。
 翌日、島から来ていた忠兄さんのお父さんとお姉さんと弟が工場に捜しに行きました。工場は鉄骨がぐにゃぐにゃに曲がって骨だけになっており、全てが燃えて真っ黒ながれきの山になっていました。がれきをかき分けて忠兄さんを一生懸命探しましたが、見つけることはできませんでした。翌日もその次の日も、3人で探しに行きました。3日探しても、忠兄さんは見つかりませんでした。3人はどうしようもなく、家から持って行った梅干し用のつぼに工場の灰を入れて帰りました。家に帰ると、家族全員が仏壇の前に集まり、一人一人につぼを手渡してみんなで泣きました。叔父や叔母はこんなに大きな声が出るのかと思うぐらい、激しく泣いていました。母はその時の叔母の姿が今でも忘れられないと言います。長崎兵器製作所と長崎造船所では、合わせて4千人以上が亡くなりました。その全員の名前が刻まれた慰霊碑には、忠兄さんの名前も入っています。

 家族みんなで泣いた日、五島出身の女学生5、6人が叔父を訪ねてきました。多分五島に帰ろうと思って港に行き、叔父の漁船を見つけて訪ねてきたのでしょう。母はその時の女学生が言った「泳いででも五島の家に帰りたい」という言葉がずっと心に残っているそうです。泳いで帰るのはとても無理ですが、それでも何としても帰りたいと思ったのでしょう。女学生たちは一晩母の家に泊まって、食事をして叔父の漁船に乗って帰って行きました。いとこたちと工場の灰が入ったつぼも一緒でした。その後、母は家に来た女学生たちの何人かが亡くなったことを聞きました。何十年も後、母が大人になって五島に行った時に、1人の女学生のお母さんに「あの時は娘が大変お世話になりました。帰宅後に娘は髪が抜けて原爆症で亡くなりました。それでもおかげさまで、最後をみとることができました」と声を掛けられました。
 

叔母と二人きりの生活 母は若鷲の歌を歌うのをやめた

 いとこたちが五島に帰り、二人きりになった母と叔母は、銭座町に下宿していた、母の姉のことが心配で、捜しに行きました。市内はあちこちで死体を焼いていてひどい臭いで、大変な状況でした。途中でにわか雨が激しく降って、国民学校で雨宿りをしていると、目の前の校庭で死体を焼いていました。女の人が「足が落ちたから拾わないと」と叫んでいる声が今も母の耳に残っています。あまりにも雨がひどくて先に進むことができず、諦めて家に帰りました。家に帰ると、もう薄暗くなっていました。その後、姉が無事を知らせに来て、3人で喜びました。数日後、叔母が遠縁の一家4人が救護所にいると聞いて、お見舞いに行きました。4人全員お腹がパンパンに膨れていて、もう長くないだろうと思ったそうです。しばらくして一家全員が亡くなりました。原爆で一家全員が亡くなった家族も少なくありません。

 8月15日、母は叔母と2人で玉音放送を聞きました。終戦だと聞きましたが、子どもにはまだ言葉が難しく、あまりよく分かっていませんでした。そのため、正午のサイレンが鳴ると、空襲警報と勘違いしてどきっとして怖かったそうです。
 原爆前はいとこたちと一緒に6人でにぎやかに暮らしていたのに、いとこたちが五島に帰ってしまい、叔母と二人きりになって寂しくなった母は、ある日、忠兄さんが好きだった若鷲の歌を歌っていました。するといつもは優しい叔母が「その歌は忠三を思い出すから歌わんと」と厳しく𠮟りました。叔母も母も、忠兄さんを失った悲しみでいっぱいでした。母はその日以来、若鷲の歌を歌うのをやめました。
 

76年たった今も愛する家族を失った悲しみが癒えない被爆者も
沖西さん「原爆の悲惨さと今でも続いている被爆者の苦しみを自分のこととして考えて」

 1人の死によって、多くの家族が悲しむことになるのです。あの日の長崎には、今日お話しした忠兄さんと母の家族のような人たちがたくさんいました。当時長崎には約24万人がいましたが、原爆によって1945年末までにおよそ7万4千人が亡くなりました。その年、原爆で亡くなった人は長崎の広島の両方で、およそ21万人もの人数になりました。東京ドームには約5万5千人が入りますが、約5カ月弱でその4倍近くの人が亡くなったことになります。長崎と広島では原爆投下の後、市内の焼け跡、広場、道路、学校の運動場、河原などあらゆる場所で、焼け残りの材木などの上に死体を載せ、油に火を付けて燃やしていました。原爆で多くの方が亡くなったのは、その年だけではありません。原爆による放射線は長い期間、さまざまな障害を引き起こし、今でも被爆者がその影響で亡くなっています。白血病やがんで入院して病気と闘っている被爆者も大勢います。原爆は生き残った人の体に障害を与えるだけでなく、あの時水を与えてあげれば良かったとか、建物の下敷きになっていた人を助けてあげられなかったという罪の意識を与えて、心にも傷を負わせました。大切な家族を失った人もたくさんいます。中には家族の中でたった一人だけ生き残り「原爆孤児」と言われる人もいました。もし今あなたの家族が全員いなくなって、あなた一人になったらどうしますか。

 私が広島で被爆体験を伝承している細川浩史さんは、原爆でたった一人の妹さんを失いました。「愛する家族を失った悲しみを時間は解決してくれなかった」と、あの日から76年がたち、細川さんは言いました。そして「当時の誰もが経験した普通の出来事です」と言葉を続けました。原爆は多くの人の「生きたい」という意思を無理やり奪いました。夢も希望も将来も全部断ち切ってしまうだけでなく、残された家族の生活や未来までも変えてしまいました。皆さん一人一人が過去の歴史を勉強して、原爆の悲惨さと今でも続いている被爆者の苦しみを自分のこととして考えてみてください。平和と命は何事にも代えられない大切な物であるということを忘れないでください。

 沖西さんは少しでも関心を持ってもらおうと、戦時中に流行した曲などの演奏も行っている。 沖西さんの演奏は徳島新聞動画TPV⇨https://youtu.be/bSuhShkQH6c