広島市安佐南区の元小学校教諭、梶矢文昭さん(82)は当時国民学校1年生で、爆心地から1・8キロの大須賀町で被爆した。退職後に「ヒロシマを語り継ぐ教師の会」を結成し、全国各地の学校で子どもたちに被爆体験を伝えている。5月には東京五輪の聖火ランナーを務め、先月は被爆者を代表して国際オリンピック委員会のトーマス・バッハ会長と対面した。
 梶矢さんは自身の経験を語り「三度目の核兵器利用を許してはならない」と訴え続けている。

聖火リレーのトーチを持って話す梶矢さん=広島市内

 警報が鳴るたび授業はストップ 分散授業所で勉強

 私は今82歳です。原爆に遭った時は6歳でした。当時は国民学校の1年生で、今のマツダスタジアムに一番近い学校です。入学してすぐは学校に行っていました。ところが、だんだん空襲が激しくなってきます。空襲のサイレンが鳴ったら授業をストップして、先生は子どもたちを家に帰していました。なんでかなと思うんですけど、昭和20年ごろ、ほとんどの学校は木造校舎でした。木造では子どもたちを保護できないので、家に帰して家族で守り合うというシステムになっていたのでないかと思います。
 警報が「うー」と鳴り出すと授業がストップして、荷物をまとめて学校から自宅まで1年生が走って帰る、非常に危ない状況でした。おそらく7月に入ってからでしょうか。学校で授業は行わず、「分散授業所」という臨時の教室を町内ごとに作り、空き家や寺にできた臨時の教室に通っていました。原爆に遭ったのも、分散授業所です。当時は夫が出兵し残った妻と子どもが広島は危険だからと田舎に帰るので、かなりの空き家があったようです。大きな空き家を借りて、そこに同じ町内の子どもが集まって勉強みたいなことをしていました。
 

きょうだいのうち姉1人が原爆で犠牲に

 私にはきょうだいが6人いて、1人は病気で5歳ぐらいの時に亡くなりました。戦争時生き残っていたのは5人です。一番小さいのが私、次男は中学を卒業して予科練で関東方面におり、長男は陸軍に入って九州にいました。姉2人のうち1人は生き残りましたが、おそらく原爆関連の病気になって亡くなりました。もう1人は3年生でした。当時3年生は、広島に残ることができませんでした。3~6年生は強制的に疎開させられていました。学童疎開で市内に住むことができず、安全な所に避難させられました。疎開には縁故疎開と集団疎開があり、山間部などの親類に子どもを預けるのが縁故、集団で周辺の寺に預けられたりするのが集団疎開です。いろんな事情があって残っている子どももたくさんいて、それぞれ3分の1ずつぐらいいました。姉の場合は3年生で、一時は縁故疎開、新庄という街で、今の新庄高校のすぐそばの親類に預けられました。預けられたままで底に残れば、死ぬことはなかった。ところが、母親が夏の着替えを持って行った時、やっぱり3年生だったからでしょうかね。「(母親と)一緒に広島に帰りたい、帰りたい。お母さんと一緒がいい」と一晩中すがり付いてせがみました。でも「広島は危ない。いつ空襲に遭うか、いつ死ぬかも分からん。だから新庄におりなさい」と説得し続けるんですけど、ある事情があって、母親はついに3年生の姉を広島に連れて帰る。で、その3日後、「ドーン」ですよね。原爆に遭って姉は死にます。死ぬか生きるかなんてことは自分で選択することができません。誰がいつどこで死ぬかどうやって生き残るか、これは推し量ることも決めることもできない。まさに運としか言いようがないと思います。姉は私と一緒に分散授業所に行き、原爆に遭う。私は生き残り、姉は即死でした。
 

T字の橋が原爆投下の目印に 

 原爆は、広島市内の相生橋を狙って落とされています。相生橋がTの字になっていたので、目立つ橋だったんでしょう。実際は200メートルぐらいずれて、島病院の上空でさく裂しています。距離にして1・8キロの所で、私は原爆に遭ったということになります。米国軍がサイパンから日本に飛んでくる際は硫黄島があるので、やすやすとは来られなかったんですがが、3月に硫黄島、沖縄を6月につぶし、B29は悠々と日本に飛んで来ています。

 戦争末期には、空いっぱいのB29爆撃機が爆弾をバラバラと落としました。私たちは庭や空き地に穴を掘った防空ごうに逃げ込んでいました。そして8月6日の朝、7時40分ぐらいでしょうか。母親に見送られ、姉と一緒に学校に行きました。この日、7時9分~31分の間、警報が出ました。警報が出ると当然学校には行きません。防空ごうに入っていましたが、7時31分に解除になります。解除になったら、防空ごうから出て姉と一緒に学校に行きます。7時の警戒警報は何だったのかというと、B29が1機、広島に侵入したんです。天気を確認しに来ました。曇っていたら広島に落とせない。広島が曇っているかを確認しに来た1機、それに対して警報が出たんです。原爆を積んだ飛行機は2機です。その時には警報は一切出ていません。
 

姉は台所、私は玄関 柱の隙間で命拾い

 6日は分散授業所で朝の掃除をしていました。姉は汚れたバケツの水を替えに台所に、私は玄関の床を雑巾で拭いていました。これが運命を分けます。昔は木造の家の場合、地震が来たら柱が多い所に逃げろと言われていました。一つは押し入れ、二つ目はトイレ、三つ目は玄関です。広い所にいるとどさっと落ちてくるけど、トイレにいたら柱が多いからなかなか崩れない。たまたまトイレにいたから助かったという手記はかなりあります。私は玄関でした。

 せん光の瞬間、これはもう光りました。全面がピカーッと光って、次の瞬間はドーンです。だから当時の人は原子爆弾という言葉は使わず、「ピカドン」と呼んでいました。遠くにいた人は広島の上空にキノコ雲が立ち上ったと証言する人が多いです。
 私は柱の下敷きで、これは何と言えばいいのでしょうか。運が良かったと言うのか、上様に助けれたと言うのか、柱がテントの屋根みたいに重なって、下にできた空間にうずくまっていました。周りはしばらく真っ暗でした。そのうち、天井の破れている所からだんだん明かりが見えてくる。その破れた穴を目がけて抜け出そうと、それは必死でした。生きるか死ぬかでしたから。必死になって柱の間をかいくぐり、天井の破れた穴からはい出ました。私の場合は誰の助けもありません。手記などで父親や母親に助け出されたという話もありますが、私は分散授業所にいて親は離れた所にいたので、とにかく自力で柱の間をくぐって壁を押し上げながら抜け出しました。
 自分で自分を褒めてやりたいという言葉がありますが、今考えると6歳の自分はよく頑張ったものだと思います。屋根からはい出すと、目の前をたくさんの人がぞろぞろと逃げていました。長い長い列です。一生懸命、父親と母親を探して歩きました。姉は死んでいました。
 

「母親は一生涯、8月6日になると涙が止まらないぐらい泣いていた」

 母親はいつまでも8月6日が来ると、泣いていました。なんでか。着替えを持って疎開していた姉の所に行き、一晩泊まって翌日帰る時に、姉は母親が乗ったバスを追い掛けて来たそうです。その頃のバスはガソリンではなく、炭をたいて走りますから、スピードは出ない。そのバスを一生懸命姉は追い掛けて来て、それを見た母親はついに我慢できずに、バスの運転手さんにバスを止めてもらい、連れて帰って、その3日後に姉は原爆で死んだ。そのことをもう悔やんで悔やんで、一生涯母親は、8月6日になると涙が止まらないぐらい泣いていました。

 昭和20年末までの死者は、公的には14万人±1万人と言われています。爆心地より2キロ以内はほぼ壊滅、私の家は1・8キロだったので壊滅し、その後燃え上がっています。原爆被害には熱線、爆風、放射能、そしてもう一つ、これは被爆者じゃないと分からないところがありますが、風評被害というものがあります。特に、女性は被爆者であることを隠している人がいっぱいいます。なぜか。被爆者の女性とは結婚するなといううわさがたくさん回りました。男の場合もそうです。私も、被爆者が結婚してもいいんだろうかと悩みました。女性の場合、結婚後、普通の子が生まれた時に初めて、実は被爆者だと打ち明けたという話をたくさん聞きました。
 

「三度ゆるすまじ、原爆を」

 広島の原爆は半径2キロ。今の核兵器、原子爆弾は、少なくとも広島型の100倍と言われています。200キロになります。200キロと言えば、岡山、鳥取、島根、そして山口、四国は全部入ります。本当に三度こんなことがあっちゃいかん。広島と長崎で終わり。今の核兵器が使われたら、まさに世界中が大変なことになる。なんとしても三度目は許してはならない。「三度許すまじ、原爆を」というのが私の今の思いです。