1945年8月6日、午前8時15分に原子爆弾が投下され、広島の街は一瞬にして焦土と化した。負傷した人たちは、倒壊を免れた病院や学校などさまざまな場所に運ばれた。そのうちの一つに、広島港の沖合にある「似島(にのしま)」(広島市南区似島町)がある。島には当時、軍の検疫所があり、6日から20日間で約1万人の負傷者が運ばれた。

 広島市で被爆した徳島県出身の増田晃さん(享年95歳)も、似島に運ばれた一人。増田さんは生還できたが、島に収容された人のほとんどは亡くなったという。島には戦争遺構が数多く残っており、今年4月、戦争の記憶を引き継ごうと地元住民らが資料館を開設した。増田さんが運ばれた似島は、どんな場所だったのか。戦争の足跡をたどった。

増田さんの記事はこちら⇨https://www.topics.or.jp/articles/-/570159
 

フェリーから見た似島=広島市内

 似島は広島港からフェリーで約20分、約3キロほどの場所にある。周囲約16キロ、人口約700人の小さな島だ。信号機はなく、タクシーも走っていないが、レジャー施設などがあって釣りや登山に訪れる人も多いという。郷土史研究家で「似島歴史ボランティアガイドの会」会長の宮﨑佳都夫さん(73)と待ち合わせて、島内を案内してもらった。
 

案内板の前で説明する宮﨑さん=広島市南区似島

 「似島と戦争の関わりは原爆だけじゃないんです。似島を知るには日清戦争までさかのぼる必要があります」と宮﨑さん。似島には明治時代の1895年、日清戦争終結後に戦地から戻った兵士に対し、コレラなどの伝染病の検疫や消毒を行う第一検疫所が開設された(1923年閉鎖)。10年後の1905年、日露戦争でより多くの兵士を検疫する必要があったため、第二検疫所が開設され、第1次世界大戦時には検疫所内にドイツ人俘虜収容所(1917年開設、1920年閉鎖)が設けられた。第2次世界大戦中の1940年には、兵士と共に戻ってきた馬にも検査を行うために馬匹検疫所ができた。そして、1945年8月6日、軍から命じられ、第二検疫所を臨時野戦病院として開放し、原爆の負傷者を受け入れた。

 なぜ、似島に負傷者が運ばれたのか。検疫所には医薬品などの備蓄が5千人分あったことから選定されたと、宮﨑さんは説明する。爆心地から約8キロ離れており、爆風で窓が割れる以外に大きな被害は無かった。「原爆投下直後から検疫所は野戦病院となり、1万人が運ばれました。しかし治療のかいもむなしく、ほとんどの人が亡くなったといわれています」。
 

   ㊧後藤新平の像      ㊨赤れんがで造られた煙突

 主な遺構を見て回った。第一検疫所は401棟、総建坪2万2660坪という広さで、わずか2カ月で建てられたという。跡地には戦後すぐ、原爆や戦争で家族を亡くした孤児を受け入れる施設が設けられた。現在は広島市立似島学園小・中学校や社会福祉法人似島学園などが入っており、検疫所開設に尽力した陸軍検疫部の「後藤新平」の像が敷地内に立てられている。学園の北側には、検疫所の汚染物などを焼いたとみられるれんが造りの焼却炉跡も残っている。
 

㊧桟橋跡から見た似島臨海少年自然の家。白の建物は海水プール
㊨桟橋から検疫所に負傷者が入っていく様子が描かれた絵

 第二検疫所があった場所には、1995年に似島臨海少年自然の家が建てられた。プールも併設され、今では毎年、多くの学生や家族連れなどが訪れる。検疫所の一角には、原爆で身寄りのなくなった高齢者らのための養護施設が1965年に開設され、現在は養護老人ホームとして運営されている。
 施設の前には検疫所開設当時から使われていた桟橋の跡が残る。宮﨑さんによると、この橋は「未消毒橋」と呼ばれ、戦地から戻った兵士たちが入ってくるための橋だった。近くには第三桟橋もあり、消毒を終えた兵士たちが広島に戻るために使われたという。
 

㊧移設された馬匹検疫所の焼却炉     ㊨検疫所の井戸

 第二検疫所は原爆投下の数時間後から臨時の野戦病院となり、検疫所にいた医師や職員らが負傷者の救護に当たったが、多くの人たちが亡くなった。敷地内には約600メートル離れた場所で発掘された馬匹検疫所の焼却炉が移設されている。当初、遺体は火葬場で火葬されていたが、死者が増えて火葬場だけでは間に合わなくなり、馬匹検疫所にあったこの焼却炉も火葬に使われたといわれている。
 当時使用されていた井戸もそのままだ。検疫所の重要な水源として活用され、原爆投下後は負傷者の救護にも使われた。2011年からは広島市の平和記念式典で原爆死没者にささげる「献水」として利用されている。
 

やけどした女性=1945年8月7日、似島検疫所内、尾糠政美氏撮影、広島平和記念資料館提供

 原爆が投下された日、似島で救護に当たった人たちの手記には

「船いっぱいに異様な姿の被爆者が次々と検疫所に上がってきた。顔は焼けて真っ黒、両目は飛び出して、唇はどす黒く腫れ、衣類は焼け裸同然だった。どの人も『水をください』と言うので水をあげたが、次々と死んでいった」

「8月7日は朝から死体運びだった。死体の中には腐り始めたものもあり、特に焼けただれた死体は強烈な臭いで、ウジ虫がいっぱいはい回っていた。タオルで顔を覆い、担架に乗せて馬匹検疫所近くの待避ごうに放り投げた。今の似島中学校の辺りから人を焼く臭いが何日も何日も立ち上り、焼ける臭いは島を包んでいるようだった。近くの焼却炉の煙突からも同じような煙が見えた」


などと当時のおぞましい光景が記されている。

全身やけどの男性=1945年8月7日、似島検疫所内、尾糠政美氏撮影、広島平和記念資料館提供


 

学校のそばに建てられた慰霊碑

 遺体はどんどん増え、すぐに火葬も追いつかなくなる。遺体は防空ごうに一時的に置かれたり、埋葬されたりした。「火葬のお骨は小さいのではっきり分かりませんが、発掘調査では埋葬された遺骨などがあちこちで見つかっています」。宮﨑さんが次に案内してくれたのは、馬匹検疫所の跡地。現在は似島小中教育一貫校があり、グラウンド横には慰霊碑が建てられている。1971年、島の住民の証言を元に発掘調査が行われ、中学校の農業実習地で517体の遺骨と100体分の遺灰が見つかった。翌1972年に慰霊碑が作られ、毎年、夏には慰霊祭が開かれている。
 

広さ1900㎡の「慰霊の広場」

 すぐそばの「慰霊の広場」も、元は遺骨が発掘された場所だ。2004年の発掘調査で、85体の遺骨と名札など多くの遺品が見つかっている。2014年に住民有志が国有地である発掘跡地に花を植え、広場として整備した。
 

4月に開設された資料館

 宮﨑さんらが開設した「似島平和資料館」はこの一角にある。より多くの人に似島の歴史を学んでもらおうと、昨秋、似島歴史ボランティアガイドの会を結成。ガイドの養成と並行し、市の補助金1千万円を活用して整備した。今年の4月にオープンしたばかりだ。
 

㊧資料館内の様子 ㊨発掘調査で見つかった骨なども展示されている

 館内には発掘調査で見つかった遺骨や遺品、戦争遺構に関する資料や写真など約100点が展示されている。
 宮﨑さんは「被爆者も高齢化が進み、やがていなくなる。戦争や原爆が『教科書の中のこと』としてしか捉えられなくなると、悲しいし怖い」と強い危機感を示す。長年、島を訪れた修学旅行生らを案内するなどして似島の歴史を伝えてきた。新型コロナウイルスの感染者数の増加を受け、現在は資料館は休館とし、ガイドによる案内も中止しているが、今後より広く次世代に伝えていきたいと考えている。
 

 

 宮﨑さんは「原爆で多くの人が亡くなった広島は『街全体が墓地』と言える。しかし、目の前の楽しみばかりを追っていると、なかなかそこに思いが至らない」と憂慮する。「まずは正しく知ってもらいたい。原爆や戦争について、現実感を持った問題として捉えられるかが問題。戦争や核兵器使用など『また来た道』を歩んでしまうのか。それだけは避けたい」と力を込めた。

 燃料貯蔵施設跡や軍用連絡トンネルなど、ここに挙げたほかにも似島には戦争の遺構がたくさん残っている。広島の街中には百貨店や商業施設のすぐそばに被爆した建物や慰霊碑などがあり、あちこちに平和の学びのきっかけが見つかる。実際に足を運んで感じてみてほしい。