大島和典さん

平和の礎には徳島出身者の名前も刻まれている=沖縄県糸満市

 『沖縄平和ネットワーク大島和典の歩く見る考える沖縄』(高文研)を出版した元沖縄平和ガイドの大島和典さん(85)=香川県さぬき市、元四国放送ディレクター=に、ガイド活動を通して知った「沖縄戦の実相」や、戦争体験を語り継ぐ意義について聞いた。

8月11日付「鳴潮」参照

問い 大島さんは2004年に沖縄に移住し、平和ガイドを14年間続けました。修学旅行生や平和団体など、通算1000回以上を数えるそうですね。その原点は、お父さんが沖縄戦で亡くなったことにあるんですね。

■大島さん 僕はガイド時代、糸満市の平和祈念公園にある「平和の礎(いしじ)」で、沖縄戦で亡くなった父親の話をしていました。それで、平和ガイドの案内を締めくくっていたんです。ただ最初は、父親のことを話すのはつらくて、触れてはいなかった。でも、香川県出身の僕がなぜ、沖縄で平和ガイドをしているのか。それが、33歳で死んだ父親について話すことで、説明がつくわけです。だから「平和の礎」を案内する際には必ず、父「大島初夫」の刻銘版に行って説明するようにしていました。

□問い 「平和の礎」には、徳島県出身者1285人の名前も刻まれています。

■大島さん 僕がガイドをしていたときには、徳島から来た人が、戦死した家族の名前を「平和の礎」で見つけることは、しょっちゅうありました。戦死公報をもらっているから、沖縄で死んだことは知っている。それでも「平和の礎」で名前を確認することの意味は大きい。泣いてしまう女性もいる。四国放送のプロデューサーをしていた1995年6月23日、徳島から十数人を引き連れて「平和の礎」へ行きました。「慰霊の日」に合わせた除幕式に出掛けたのです。僕の父親の名前が刻まれている香川県の隣に、徳島県の刻銘板が並んでいる。そこで、子と孫を連れて参加していたおばあさんが泣き崩れる。すると孫が「ばあちゃん、なぜここで泣くの」と聞く。その女性は「ここに、じいちゃんが死んだという証拠が書かれている」と説明する。小さい女の子は、それを理解する力を持っている。それを横で聞いていて、僕も一緒に泣きました。一人の人間が泣き崩れる、それだけの力を持っているんです。そこに刻まれた戦没者の名前には。やがてコロナ禍が終わって、沖縄へ行く人もいるでしょう。「平和の礎」へ行って、そこに書かれている戦没者の名前を確認して帰ってほしいと僕は思います。

□問い ところで、沖縄戦の戦死者の遺族に送られてきた白木の箱を開けたら、石ころしか入っていなかった。そんなふうに聞いています。

■大島さん 僕も高徳線の造田駅まで行き、そこで降ろされた父の「遺骨」を抱いて、寒川町(現・さぬき市寒川町)まで歩きました。家に帰って、何が入っているのかと思って開けたら、確か木片だけが入っていた。それで、母親が言いました。「父親が死んで、こんなんで送り返してくるのか」と。

□問い 「遺骨」と言われて帰ってきた木片とか、遺族の方たちはその後、どうしたんでしょうか…。お墓に入れたのでしょうか。そうせざるを得ないのでしょうね。恐らく、その辺りに転がっているものを、取りあえず入れておいたということでしょうけれど、一回「遺骨」と言われたら、もう捨てられないですね。もう、それに託すしかないですよね、それしかないのだったら。

■大島さん 「平和の礎」からちょっと行ったところに、(沖縄戦を率いた陸軍第32軍司令官)牛島満中将の名前を刻んだところ(「黎明之塔」)がある。僕はそこでは絶対話をしません。牛島中将が沖縄県民に対してやったことは一体、何ですか? 牛島中将の命令で軍が(首里の司令部を放棄して)南部へ撤退し、先に避難していた大勢の沖縄県民を巻き込んだ。僕の父親もそうだが、その混乱の中で何万人が死んだか。

□問い 以前に大島さんに紹介していただいた遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」の具志堅隆松さんが、ハンストをしていました。激戦地だった沖縄本島南部で、米軍辺野古基地の埋め立て用の砂利を採取する計画に対してです。ものすごく怒っていましたよ。「戦争で1回殺されて、辺野古に土を持って行かれて、もう1回殺されるのか!」と。けれども、こちら(本土)では、ほとんど報道されていません。

■大島さん 具志堅さんは立派ですね。以前、一緒に遺骨収集に行きましたね。

□問い 今でも、名前が書かれている時計などが出てくるんですね。以前、阿波市市場町の人の万年筆が出てきて、遺族のもとに戻ったことがあった。それを見つけたのも具志堅さん。それで、埋め立て用土砂の採取予定地というのは、沖縄の人たちがとても大切にしている「魂魄(こんぱく)の塔」(糸満市)のすぐ近くらしいですね。土の中の遺骨とサンゴ片とは、ほとんど見分けがつかないのに。

■大島さん 「魂魄の塔」は住民や兵士3万5000体くらいが眠っていた場所です。「魂魄の塔」の後ろに回ったら、1974年に転骨するため、骨片を取り出したとされる場所がある。僕も「遺骨を掘り出して、おまつりしたところですよ」と説明することがありました。ただ僕の友人の研究者が、実際にどれだけ遺骨を取り出したかを調べたところ、そんなには取り出していないようです。だから、遺骨はまだ「魂魄の塔」に眠っているということになるのだけれども。

□問い 沖縄県内のほかの慰霊碑や慰霊塔は必ずしも、その下に遺骨が眠っているわけじゃないけれど、「魂魄の塔」は近くの米須海岸などに散乱していた遺骨を集めて、埋葬したわけですからね。そして慰霊碑が1946年2月に完成した際、「魂魄の塔」と命名するよう助言したのが、故翁長雄志元知事のお父さんだったといわれていますね。

■大島さん 翁長助静さんですね。それと「魂魄の塔」で、僕らの仲間でもある平和ガイドが「アメリカ軍の兵士の遺骨も眠っている」と説明していることがありますが、そんなことはあるはずない。なぜならアメリカ軍は、最後の1体まで兵士の遺骨を掘り起こして、必ず家族のもとに返します。だから、アメリカ軍兵士の遺骨は「魂魄の塔」には眠っていないと、僕は思っています。

□問い アメリカ軍には「どんなことがあっても、遺骨を家族に返す」という文化というか、ルールがありますね。松茂町で戦争末期に米軍機が墜落し、パイロットが埋葬されていたのですが、終戦後に米軍がやって来て遺骨を掘り返し、持ち帰ったといいます。

■大島さん そこはしっかりしている。

8月21日配信〈下〉へ続く。