父・初夫さんからのはがき。沖縄から送られた

高文研刊「沖縄平和ネットワーク大島和典の歩く見る考える沖縄」

□問い ところで、沖縄で平和ガイドをしている方でも、こうして本にしてまとめている例はないらしいですね。本当に読みやすい。特に今はコロナで現地に行けないから、こうして本にして出版することの意味は大きいですね。その中でも、大島さんが1995年6月23日に「平和の礎」の除幕式に出掛けて、カメラを構えて父親の名前を収めていたら、字が大きくぶれるという話。『歩く見る考える沖縄』は沖縄の地元紙・琉球新報をはじめ、数多くのメディアで取り上げられていますが、やはり印象的だったのか、この「名前が揺れた」というエピソードは各紙とも触れています。おかしいなあと思ったら、体が無意識に反応していたという…。

■大島さん 父親の出身地の香川県の刻銘版で、「大島初夫」の名前を撮影していたんです。それがファインダーの中で、なぜか揺れる。おかしいよね。僕もカメラのプロだから、脇をぐっと締めてカメラを構えているのに。揺れるはずがないのに、ぶれるんだ。頭では分かっていても、体が反応して、僕自身の胸が大きく揺れていたんです。「平和の礎」に名前が刻まれているといことが強烈だから、「父親はここで死んだ」という事実を思い知らされる。それまで、戦死公報などで父親は死んでいると分かっている。だけどあそこで、2回目に思い知らされた。「やっぱり死んでいたか」と。遺族の方は、みんなそういう気持ちは味わっていると思いますよ。

□問い 「やっぱり死んでいたか」ですか。

■大島さん このときは四国放送で番組を制作していて、徳島県の遺族十数人と一緒だった。それで帰りのバスの中でマイクを回して、全員に話してもらったら「ひょっとして、どこかで生き延びているんじゃないかと思って、沖縄まできた。だけどあそこで父親の名前を見たら、やっぱり死んでいたと思わざるを得ない」と言っていました。頭の片隅にあった「なにかの事情で、出てこられないのじゃないか」という思いが断ち切られ、「やっぱり死んでいたか」と。いわば死の再確認ですね。

□問い 「平和の礎」との対比になりますが、沖縄には全国46都道府県の慰霊塔が建てられています。それらの多くは、郷土出身の戦没者を慰霊する碑文となっています。そこでは「沖縄県民を巻き込んで犠牲にしてしまった」ことにはほとんど触れられていない。それらが建立されたのが、(沖縄戦の実相が十分伝わっていなかった)1960年代ごろだったという時代背景はあるにせよ、沖縄県民には微妙な感情もあるようです。

■大島さん 沖縄の犠牲に触れているのは「京都の塔」と「近江の塔」だけです。「平和の礎」の近くの摩文仁の丘にある「徳島の塔」にはただ、徳島の青石で作られているということだけが碑文に書かれていて、さっぱりしている。(※碑文には「たたかいに散りたる御魂(みたま)やすかれと ふるさと阿波の青石を立つ」の歌が刻まれている)

□問い 沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒で結成された従軍看護隊「ひめゆり」の人たちは、「殉国美談」のように扱われるのをすごく嫌がるといいますね。特に「ひめゆり部隊」と書かれるのを。自分たちは闘ってはいない、戦闘には加わっていない。「ひめゆり学徒隊」だと。

■大島さん 僕は「ひめゆりの塔」と「ひめゆり平和祈念資料館」(糸満市)では、ほとんどしゃべらないことにしています。たくさんの学徒が亡くなった伊原第三外科壕跡の前に、ヒメユリをかたどったレリーフがあるでしょう。僕は「ここで、ひめゆりの人が大勢亡くなった」ということを話すだけです。

□問い 徳島からの修学旅行生も必ず行く場所ですね。

■大島さん ある日のことでした。元ひめゆり学徒隊の方が、戦死した生徒・教師約200人の遺影を掲げた展示室に入って、遺影の写真を懐かしそうに撫(な)でさすっていました。その人は当然、随分とお年を召されている。それが、ひめゆり学徒隊の人たちの写真を撫でさすっている。「あなたたちには、言いたいことはいっぱいあるはずだ。でも死んでしまって、喋(しゃべ)れない」と。そして「いま、自分たちは生きているから、まだ喋ることができる。だから喋らざるを得ない」。そういう思いで、つらい戦争体験を語り部として話してきた。そんな姿を見て、その体験をどう「自分のもの」にするか、ということなんですよ。ただ「ああ、おばあさんがいて、写真を撫でさすっている」ということだけを見て、資料館からさっと出て行くのでは…。やっぱりあそこ(ひめゆり平和祈念資料館)に行けば、分かることだと思いますよ。美辞麗句を並べなくても。

□問い 自分で考えることが大切ですね。その点、『歩く見る考える沖縄』は、説明を聞いている中学生や高校生に考えさせようとしている。そんな話し言葉で書かれている。押しつけがましくなくていいですね。それで、若い子の方が反応がいいわけでしょう、素直だから。ところで、大島さんが参加していたグループ「沖縄平和ネットワーク」の仲間は、何人くらいが活動していましたか?

■大島さん 多いときで20人から30人くらいかな。メンバーはウチナンチュー(沖縄県人)が中心です。元学校の先生とか。

□問い 以前には、もう5人とか10人しかいないとおっしゃっていた。平和ガイドを引き継ぐ、次の世代の人はいますか。

■大島さん いないですね。特に、僕のしゃべりをそのまま引き継いでくれる人はいない。

□問い 大島さんが書き残したガイド用の原稿があるからといって、同じように喋っても、それは全然違いますね。大島さんのガイドの真似はできません。

■大島さん ところでこれは父が沖縄に行ってから、僕に送ってきたはがきです(『歩く見る考える沖縄』の54ページに収録)。僕が8歳のときです。父は満州(中国東北部)で召集されて、1944(昭和19)年8月には沖縄に行っていた。その直後に送ってくれたはがきです。大島初夫の最期の決断は、僕たち家族を日本に帰したこと。僕らは満州の新京に暮らしていたのですが、父親が召集にあい、その年の夏休みに僕らは香川に帰ってくる。その判断は、どこから出てくるのか。そういうこと(日本の敗戦)を、父親が予言していたとしかいいようがない。よくあのとき、判断したものだと思う。

□問い 大島さん、語り残していることはもうないですか。これだけはやっぱり、言っておきたいということは。

■大島さん 『歩く見る考える沖縄』にだいたい書きましたから…。

□問い 本当ですか。大島さんの中では、完成度でいったら何割くらいですか。言いたいことはいっぱいあるでしょうけれど、優先順位でいうと、これで収まりました?

■大島さん いや、収まっていない。言いたいことは、いっぱいある(笑)。

□問い 一番言いたいのは具体的に言うと、どういうことですか。

■大島さん 「一番大事なものは目に見えない」ということ。

□問い サン・テグジュペリの童話『星の王子さま』に出てくる話ですね。「一番大事なものは目に見えないんだよ」。つまり「本質を見なさい」ということでしょう。『歩く見る考える沖縄』にも書かれています(104~105ページ)。でも、本当に大事なものは目に見えないというけれど、「目に見えているものでさえ、見ていない」ということはよくありますね。(了)

※『沖縄平和ネットワーク大島和典の歩く見る考える沖縄』は高文研刊。税込1760円。