ごーとか、がーとか長音に聞こえる雨音は、無数の連音で成り立っていて、水を飲みこみ続ける下水溝では、たしか雨がそういう音を立てているなと思った。

 その日の朝は雲一つない快晴から始まった。午後になるにつれて雲が出始めて、正午にはめでたく狐の嫁入りがあった。バイトから帰り着く頃、外はどしゃ降りだったから、私はわざわざたっぷり濡れるようにして帰った。明るいうちに入るお風呂は新鮮で、地上波放送の映画を途中まで見て、眠くなった時間に布団へ入った。

 夢の中まで入り込んだ雨音が鼻先をかすめて、私は深夜に目を覚ました。車のヘッドライトがカーテンの隙間を差して、部屋を横切った。小気味いいリズムで、雨は家の屋根といい、壁といい、横殴りに殴りつけている。雨やみはまだ遠い気がした。夜雨の暴風の中で、街がしんと寝静まっているのを想像すると、無数の雨音も静寂に近づいていき、何もかもが夢に変わる。夢から醒める列車のダイヤは九十分おきだ。当然、乗り遅れることもある。

 朝、目が覚めた時には、深夜のことは忘れていた。何となく目が覚めたな、とだけ覚えていて、夜更けに見た夢と勘違いしていても、たぶん気付かないだろう。麦茶を飲んで、十五分ほどだらだら過ごした後、バイトに向かった。

 アルバイト先のスーパーマーケットは最寄り駅に隣接している。駅まで続く長い坂を下っていくと、なぜだか、入り口のシャッターが閉まっていた。制服に着替えて、裏へ回る。中は真っ暗で、そして騒がしかった。うろうろする懐中電灯が蛍の光のようで、綺麗だった。店長が事務所前を走っていくと、その後ろから経理の杉本さんが出てきて、懐中電灯を渡してくれた。杉本さんも店長を追って、売り場へ出て行く。私は青果の加工場へ行った。リーダーがケータイのライトをかざしながら、停電だってよ、と言った。

 とにかく当日分の荷下ろしから始めようとリーダーに言われた。冷蔵庫はかろうじて冷気が残っており、傷みやすいものから中へしまっていくことになった。売り場からバックヤードへ荷物を運ぶたび、店長が電話をかけながら店内を巡回しているのにすれ違った。冷凍品は酷いことになっているのだろうな、と他人事だからこそ思った。

 荷下ろしは開店時刻までに終わった。これが終われば、今日は休みかもしれない。浮足立っている自分がいた。仕事が終わったので、リーダーに報告すると、待機してて、と言われた。電力の復旧の目途はまだ立っていないらしい。電車も止まっていて、ここら一帯をまかなっている送電線が倒れたのだ、と杉本さんが教えてくれた。復旧には自衛隊が出動している、らしい。

 私は暇つぶしに売り場へ出ることにした。スイングドアを抜け、深い影の差す棚の林へ入っていく。売り場に立ち上がる光の柱はほこりをきらめかせて、天井に嵌め殺された窓へ一直線に集まっていた。窓からは空の青色が見える。

 いい天気で、仕事なんてしたくないな、とこれはどんな天気の日でも思うこと。シャッターの閉まった店内はのこぎり刃の天井から差し込む明かりだけが頼りで、光の及ばない隅の方は薄暗く、店の中にはバイトのおばさんたちのかしましい声が満ちていた。停電の詳しいうわさは全部彼女たちの口から漏れ聞こえてくる。

 野菜の鮮度チェックを終え、もう一度、リーダーに声をかけると、どうしよっかな、と言われた。やることがなくなったので、段ボールを片付けに裏へ出た。

 店の裏手の小山はゆっくりと身体を揺すらせていた。コンクリートの石垣の上では紫陽花の花が色づくのを待っている。山の方から吹き下りてくる風は涼しくって、季節はまだ足踏みしているのだと感じた。

 紫陽花の隣では花梨が咲いていて、さらにその上では葉桜がそよいでいる。深緑が鱗めいてきらきらと光を反射する。手をかざすと血管の浮き出た手の甲が影になって、指の間に薄桃色の花梨と紫陽花が咲いた。

「野々宮さん、いま平気ですか?」

 従業員出入口の扉を開き、立っていたのは副リーダーの宇佐美さんだった。切れ長の目元にひかれたアイシャドウに、注目がいった。

「仕事ですか?」

 と答えると、付いてくるよう言われた。小柄な宇佐美さんの後ろを歩くと、自分の背が大きくなったみたいだった。デリカの調理場を通り、売り場へ出ると、飲料コーナーに人が集まっていた。

「ここからここまで廃棄するみたいです」

 と宇佐美さんが示したのは、牛乳などの紙パック飲料だった。停電は夜からで、つまりこれらは、軽く半日は常温で保存されていることになる。

「牛乳飲みます?」

 日配のリーダーが声をかける。大丈夫そうなのを、従業員に無料で配っているのだった。

 首を横に振る宇佐美さんを横目に、私は一つ受け取る。消費に貢献というやつだ。

「これだけの量、大変ですね」

 と声をかけると、宇佐美さんは、そうですねと答えた。それっきり会話はなくなり、私と宇佐美さんは黙々と牛乳を片付けた。宇佐美さんが冷ケースから牛乳を取り出していたので、私はそれを外へ運んだ。

 その日、正午の鐘は鳴らなかった。お昼には店長が休憩を知らせてまわり、お弁当を無料で分けてくれた。

 私は駅前のベンチでお昼を食べることにした。大雨が通り過ぎた後だったので、鮮やかな快晴だった。お弁当を食べていると、宇佐美さんが出てきて、花壇のふちに腰かけた。彼女もとろろそばのお弁当だった。

「店休、混んでました?」

 少し、声を張った。宇佐美さんはびくっとして、こちらを見た。

「外、気持ちよさそうだったので」

「あー、ですねー」

 彼女は膝の上のそばに視線を戻して、パックのとろろを絞った。

「ナポリタン、店長におすすめされませんでした?」

「......冷たいと美味しくなさそうですよね」

「あー、なるほどー」

 宇佐美さんはそばをすすらなかった。一口含んで、麺を噛み切る。口の端にとろろがついた。

「とろろ、ついてますよ」

 顔を上げた宇佐美さんが、こちらを見たので、私は鏡になるよう指で自分の右頬を指した。宇佐美さんは想像通り、逆側を拭った。

「逆です」

「......すみません」

 それから、私たちはやっぱり黙々ととろろそばを食べ、店長におすすめされた乳酸菌飲料を飲んだ。

「いい天気過ぎて、仕事したくないですね」

「帰っても片付けさせられるから、どっちでもいいです」

「宇佐美さんの家、そんなにひどかったんですか?」

「......」

 間があった。そばを咀嚼しながら、宇佐美さんの方を見ると、彼女は持ち上げたそばを吹いていた。

「宇佐美さん?」

「今月で仕事を辞めて、引っ越すんです」

 宇佐美さんはそばを口へ運んだ。私は飲み込むのを待つ。

「徳島って、何があると思います?」

 え、と言いかけた。

「......すだち、とか?」

「ほかには?」

「えっと、鳴門海峡は徳島だったっけ? あとは......タヌキ?」

 宇佐美さんがこちらを見る。

「何ですか、タヌキって」

「ぽんぽこの映画、観たことないですか? 化け学の偉い先生が、四国から来なかったかなー?」

 宇佐美さんはスマホを開いた。

 風も止んで、ぽっかりと音に隙間ができた。落とし穴みたいなそれは、収まってみると意外と心地がいい。全部が等間隔に遠い感じが好ましかった。音の真空を伝わって、遮断機の下りる音がする。

「徳島ってタヌキが有名なんですね。知らなかった」

「電車、復旧したんだね」

「え?」

「ほら、遮断機の音」

 と踏切の方を指さすと、駅の構内から駅員が飛び出してきた。あれ、と思う間もなく、信号の灯っていない踏切に遮断機が下りる。音など鳴っていなかった。

「故障かな?」

「でも、何か来ますよ」

 こちらから見て、左に曲がった線路は田無トンネルへ入っていく。トンネルの向こうはやっぱりカーブしているので見えない。そこから、青白いものがひょろり、ひょろりと揺れながら、こちらへ向かって、走ってくる。ああ、いや違う。がたん、ごとんと揺れているそれは、まったくスピードを緩めることなく踏切を突っ切って、駅の建物はびりびりと震えた。揺れていたのは炎だった。提灯みたいな淡いやつ。それが十両編成でやってきて、最後の炎がふるふると身をよじると、風が吹いて、それがその日一番の大風だった。(了)

 

 

 あかね・あゆむ 1996年東京生まれ。高校を中退後、フリーターをしながら作家を目指す。阿波しらさぎ文学賞へは初の応募だった。静岡県在住。25歳。