「私は石もて追われたっていう感じで徳島を出ました。だから、徳島へは帰らない。もう二度と帰れないと思っていた。でも、帰ってくるようになって、今では本当によかったと思う。徳島は私の感性を培ってくれた土地。私が人間形成されたのは、紛れもなく、生まれ故郷の徳島だった」
今年89歳になった瀬戸内寂聴さんは、遠い過去の記憶を引き寄せるように語り始めた。
なぜ、古里を追われる身になったのか? それは寂聴さんが若き日、結婚していたにもかかわらず、別の男性を好きになってしまったから。25歳のときに、夫と幼子を捨てて、家を飛び出した。2001年に野間文芸賞を受賞した自伝的小説「場所」には、そのとき、父・豊吉から送られた手紙の衝撃的な内容がつづられる。
「これでお前は人の道を外れ、人非人になったのであるから、鬼の世界に入ったと思え。鬼になったからには、今更人間らしい情や涙にくもらされず、せいぜい大鬼になってくれ」
不倫により悪女の汚名を受けた寂聴さん。人の幸福を踏みにじってしまった以上、自分は決して幸せになってはならぬと心に決めた。しかし、それは恋に生きるためではなく、小説家になりたいという一念が起こした出奔だった。
学生のように下宿生活をしながら少女小説や童話を書いて生活を立て、作家を目指した20代後半。34歳のとき「女子大生・曲愛玲(チュイアイリン)」で新潮社同人雑誌賞を受け、小説家として文壇にデビューする。その直後に発表した「花芯」が「ポルノ」だと酷評され、文芸誌から冷遇される。
「でも、『花芯』でつまずいたおかげで、今の私があると思う。あのとき、順調にいっていたら、売れる作家にはなったでしょうが、それまででしたね」
寂聴さんは39歳のとき、田村俊子賞を受賞し、文壇に復帰。1963年「夏の終り」で女流文学賞を受け、作家としての地位を確固たるものにした。
「私はずっと徳島が好きでした。でも、いろいろなしがらみがあり、帰ることができなかった。その時『どうしても帰ってきてください』と言ってくれる人がいた。当時の徳島市長・山本潤造さん(故人)です」
深刻な話を打ち明けるように、少し沈みがちに話していたが、ここまで話したとき、にわかにいつもの明るい口調に戻った。
「わざわざ京都の寂庵に三度も来てくれて『寂聴さんに徳島に帰って来てもらわなくては困るんです』と、三顧の礼をもって説得されたんです。私は何度もお断りしたんだけど、その熱意に感動して、古里へ戻る決意を固めたんです」
1980年のことだ。それから30年余り。「こんなに頻繁に帰ってくるようになるとは、さすがに思わなかった」と話すように、徳島県立文学書道館の館長としての仕事以外にも、寂聴塾や講演会、ナルト・サンガでの青空説法などで、毎月のように古里徳島に帰るようになった。
「2006年に文化勲章をいただいたとき、徳島の人からも大きな祝福を受け、少しは古里に恩返しができたかなと思いました」
卒寿が近付いた今も、小説の執筆や講演会、マスコミの取材対応などに大忙しの寂聴さん。背骨の圧迫骨折のため、昨年秋から今年春まで、約半年間の療養生活を余儀なくされたが復帰。自ら館長を務める県立文学書道館の特別展や、ナルト・サンガの法話など、徳島での活動もフル回転している。
歯切れのよい語り口と飛びきりの笑顔。楽しく慈愛に満ちた話は、聞く者に活力を与え続ける。
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徳島市出身の作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんに、古里や懐かしい人々への思いを語ってもらった。
▷連載 瀬戸内寂聴が語る「わが徳島」(2011年掲載)
1:「いろいろなしがらみがあり、帰ることができなかった。その時『どうしても帰ってきてください』と言ってくれる人がいた」 古里への思い
2:入学式の翌日、学校の図書館で与謝野晶子訳「源氏物語」と出合う 少女時代
3:「徳島の青空は、どこよりもきれい。自慢していい」 古里の風景
4:モラエス、冤罪事件「徳島ラジオ商殺し事件」で殺人罪に問われた冨士茂子さん、立木写真館の思い出 徳島の人々との交流
5:「今日は取材はおしまい。いいでしょ」とビールをグラスに 記者との雑談で
6:主婦、OL、学生、会社員、公務員、喫茶店経営者…多様な人たちが学んだ寂聴塾 郷土の文化育む