今年4月から6月まで、徳島市ので開かれた特別展「終(つい)の栖(すみか)」で、珍しい写真を目にした。法衣姿の瀬戸内寂聴さん(89)がブランコに乗り、写真家の藤原新也さんと一緒に遊んでいる。その表情は、まるで無邪気な少女のようだ。
「私は子どものころから、ブランコが大好きなの。だから、ブランコを見つけると、すぐに乗りたくなる。私が台本を手掛け、同郷の三木稔さんが作曲したオペラ『愛怨(あいえん)』を鑑賞するために、昨年、ドイツを訪れたときも、ついブランコを見つけて乗っちゃった。当たり前だけど、ブランコは世界共通の遊具なのよ」
寂聴さんは、1922(大正11)年、徳島市塀裏町(現・幸町)生まれ。18歳で東京女子大学へ進学するまでは、徳島以外で住んだことは一度もなかった。つまり、生粋の阿波っ子だ。少女時代はどうだったのだろう。
父・豊吉は指物職人だったため、家には弟子が10人以上住み込みで働いており、大家族で暮らしていた。「両親ともに忙しく、幼いころはほとんど見捨てられていたの」と振り返る。
5歳のときだ。5歳年上の姉・艶(つや)さんが幼いころは、まだ祖母が生きていたため、幼稚園に通うことができたが、寂聴さんは送り迎えをできる人がいないという理由で、幼稚園への入園を断念させられてしまった。
「でも、どうしても納得できなかった。そんなの不公平でしょ。それで、ひとりで徳島駅前にあった寺島尋常小学校(現・内町小学校)の校内にあった幼稚園まで歩いて行って『幼稚園へ入りたい』って泣いた」。6月の初夏の日差しが照り付ける暑い日だった。寂聴さんは、今でも忘れない。
5歳の少女のとっぴな行動は家族や周囲を驚かせた。「『この子は放っておくと何をするか分からない』ということになり、翌日から姉と一緒に登下校する約束で、途中から幼稚園に入園することができた。とても気が強い少女だったんでしょうね」
84年も前の出来事を、まるで昨日のことのように楽しそうに話す。89歳になっても衰えない行動力はたぶん、このころ既に片りんを見せていたのかもしれない。
新町尋常小学校(現・新町小学校)へ入学するとき、塀裏町から東大工町へ引っ越した。ここに今も実家の瀬戸内神仏具店がある。
小学校時代の寂聴さんは、読書好きで綴(つづ)り方(作文)が得意な少女だった。アンデルセン、グリム、西條八十から宇野浩二まで何でも読んだ。初めて作家を夢見たのもこのころ。
「3年のとき、将来の夢を聞かれた調査で、私は迷わず『小説家』と書いた。無記名だったのに、みんな一斉に私を見るの。そんなことを書くのは私に決まってるという感じ」
県立徳島高等女学校(現・城東高校)へは、1番の成績で入学した。1935(昭和10)年のこと。運命的な出合いがあったのは、入学式の翌日だった。学校の図書館で与謝野晶子訳「源氏物語」を見つけた。
「こんな面白い本は読んだことがない、と興奮しましたね。文学少女だった私は、有名な小説はたいてい読んでいるつもりだったのに、源氏物語はどの小説よりも素晴らしかった。将来、絶対に小説家になろうと、あらためて決心したの」
まさか76歳になって「瀬戸内寂聴現代語訳 源氏物語」(全10巻)の出版を成し遂げるとは、夢にも思わなかっただろう。しかし、このときの源氏物語との出合いが、寂聴さんのその後の作家活動を大きく支えた。3年のときに出版された谷崎潤一郎訳も、夢中になって読みふけった。
「徳女では多くのことを学びました。当時から名門で、徳島での結婚条件の一つに『徳女卒業』とあったほど。学力的レベルも高かったと思います。東京女子大学へ入学したとき、そのことがよく分かりました」。
《メモ》瀬戸内寂聴さんは生まれたときは、三谷晴美という名前だった。徳女へ進学する前、父の大伯母の瀬戸内いとに家族養子に入り、瀬戸内晴美となった。
▷連載 瀬戸内寂聴が語る「わが徳島」(2011年掲載)
1:「いろいろなしがらみがあり、帰ることができなかった。その時『どうしても帰ってきてください』と言ってくれる人がいた」 古里への思い
2:入学式の翌日、学校の図書館で与謝野晶子訳「源氏物語」と出合う 少女時代
3:「徳島の青空は、どこよりもきれい。自慢していい」 古里の風景
4:モラエス、冤罪事件「徳島ラジオ商殺し事件」で殺人罪に問われた冨士茂子さん、立木写真館の思い出 徳島の人々との交流
5:「今日は取材はおしまい。いいでしょ」とビールをグラスに 記者との雑談で
6:主婦、OL、学生、会社員、公務員、喫茶店経営者…多様な人たちが学んだ寂聴塾 郷土の文化育む