「眉山がこんなに近いとは思わなかった」
瀬戸内寂聴さん(89)は、北京から引き揚げてきた1946(昭和21)年8月の徳島市内の風景を、鮮明に覚えている。前年7月の徳島大空襲により、徳島市街は文字通り、焼け野原となっていた。
「徳島駅に降りると、何もないのね。今は、街の向こうに眉山が見えるけど、建物も何もないと、眉山がすごく近くに見えたの。びっくりした」
ぼうぜんと立ち尽くしていると、新町尋常小学校(現・新町小学校)時代の同級生が寂聴さんを見つけ、悲報を告げた。実母・コハルと祖父が、東大工町の自宅の防空壕で焼け死んだというのだ。
東京女子大学在学中に見合いし、北京の師範大学で講師をしていた学者の卵と結婚。太平洋戦争のさなか、夫と北京へ渡った。44年には長女が誕生。終戦後、親子3人で着の身着のまま徳島へ引き揚げてきた直後の衝撃だった。
空襲による一面の廃虚、目の前にそびえ立つ眉山…。まさに「国破れて山河在り」の心境だった。戦後生まれの者には想像もできない切ない景色。寂聴さんは、そのときまだ24歳だった。
眉山には別の思い出もある。夫以外の人と恋に落ち、逢い引きをした場所だった。
不倫といっても昔風ですから、肉体関係も何もない。幼いころからよく知っている眉山の林の中で、ただ朝早く、一時間ほど座って話をしていただけ…」
その恋のことは、代表作「夏の終り」や、2001年に野間文芸賞を受賞した自伝的小説「場所」、今年出版した短編集「風景」にも垣間見ることができる。
最近は館長を務める県立文学書道館の特別展や、ナルト・サンガでの青空説法のため、古里徳島へ戻る機会も多い寂聴さん。京都市の寂庵からの移動は車で3時間もかかる。時には移動前夜、締め切りが迫った小説の執筆に追われ、徹夜で30枚の原稿を書き上げることもあるという。
89歳の今も超人的な日程をこなす寂聴さんは、ふとこんなことを話し始めた。
「このごろ私は、徳島の空は青く澄んでいて、とても美しいとつくづく思う。懐かしさからそう感じるのかと思っていたけれど、そうじゃないみたい。講演や取材で全国の青空を眺めてきた私が言うんだから間違いない。徳島の青空は、どこよりもきれい。自慢していい」
寂聴さんは小説や随筆の中で、折に触れ、古里・徳島の思い出を語る。たぶん、それは徳島のことを本当に愛しているからだ。県立徳島高等女学校(現・城東高校)を卒業した18歳までは徳島に住んでいたものの、戦後引き揚げてきた後の約1年半を除き、89年の人生のほとんどを県外で暮らしてきた。その寂聴さんが魅了される青空。
「地元に長い間、住んでいるとなかなか気付かないでしょうけど、そんな郷土の風景を誇りにしてもらいたいですね」
四国遍路の情緒も、寂聴さんの好きな風景の一つだ。
「幼い昔、春は巡礼の鈴の音が運んで来るものだと思い込んでいた」。こんな書き出しで始まる随筆紀行「寂聴巡礼」は、少女時代の寂聴さんの豊かな感性をうまく表現している。春の足音に誘われ、お接待袋を町の四つ辻に設けられた台の上に置いてくるのが、幼い少女だった寂聴さんの日課だった。
「朝もやの中から影絵のように浮かび上がってくるお遍路さんの姿を眺めていると、心が軽やかに浮き立ちました。どの巡礼の白衣にも春風の香りが染みこんでいるような気がした」
寂聴さんの瞳に映る美しい徳島の風景。それは私たち県民が思い出さなくてはならない大切な宝物かもしれない。
▷連載 瀬戸内寂聴が語る「わが徳島」(2011年掲載)
1:「いろいろなしがらみがあり、帰ることができなかった。その時『どうしても帰ってきてください』と言ってくれる人がいた」 古里への思い
2:入学式の翌日、学校の図書館で与謝野晶子訳「源氏物語」と出合う 少女時代
3:「徳島の青空は、どこよりもきれい。自慢していい」 古里の風景
4:モラエス、冤罪事件「徳島ラジオ商殺し事件」で殺人罪に問われた冨士茂子さん、立木写真館の思い出 徳島の人々との交流
5:「今日は取材はおしまい。いいでしょ」とビールをグラスに 記者との雑談で
6:主婦、OL、学生、会社員、公務員、喫茶店経営者…多様な人たちが学んだ寂聴塾 郷土の文化育む