今年5月、満89歳になった瀬戸内寂聴さん。「来年は卒寿ですよ。卒寿と言えば、人間を卒業すること」と冗談めかして話すように、長い人生の中で、今や知る人も少ない人物との交流が数え切れないほどある。徳島ゆかりの懐かしい人々のことを語ってもらった。
まず晩年を徳島市で過ごしたポルトガルの文人モラエス(1854~1929年)との邂逅(かいこう)から。
新町尋常小学校(現・新町小学校)1年のとき、瑞巌寺(徳島市東山手町)近くの通りで遊んでいると、男がのそっと出てきた。
「一目で西洋人と分かりましたよ。珍しかったから、後ろをついていったの。寺町をずっと歩いて、お墓へ行くのを見届けました。後で、あれがモラエスだと分かった」
寂聴さんが新町小学校へ入学したのは29年4月。モラエスはその年の7月に亡くなっているので、それは最晩年の姿だったに違いない。そして、目的地は彼が愛したおヨネとコハルの墓だった。
2007年に徳島県で開かれた国民文化祭で上演するために、寂聴さんは人形浄瑠璃の脚本「モラエス恋遍路」を執筆。モラエスとコハルの愛をドラマチックに描いた。
やがて、話は戦後の代表的な冤罪(えんざい)事件となった「徳島ラジオ商殺し事件」で殺人の罪に問われた冨士茂子さん(1910~79年)の話題に。死後に冤罪を晴らすまで二十数年間、支援をし続けた。
「思いがけないことで、最後まで付き合いました。茂子さんは頭がよかったですよ。非常に勝ち気でね。信念を貫いた人でした」
寂聴さんが冨士さんの冤罪を確信した出来事があった。仮出所後、渋谷の金物屋で働いていた冨士さんが、寂聴さんのマンションを訪れ、台所の包丁に目をやった。
「まあ、先生、こんなぼろ包丁を使っているの? 今度、私がええのを持ってきたげる」と言う。次に来たとき、包丁を3本、新聞紙にくるんで、提げて来た。
「裸の包丁を持ってきて『はい』って渡すんですよ。私はそのとき、この人は本当にシロだと思った。包丁で殺したことになっていたんですから。やっていたら、そんなことできませんよ」
NHKの連続ドラマ「なっちゃんの写真館」のモデルとなった立木写真館(徳島市仲之町)の立木香都子さん(1915~86年)も思い出深い一人という。
「当時は、そこが一番はやっていた写真館だった。卒業写真も見合い写真も結婚写真も、すべて立木で撮った時代。私のあらゆる写真を撮ってもらったといっても過言ではない」
42(昭和17)年に撮影した見合い写真も、立木写真館に頼んだ。和服姿の20歳の寂聴さんが艶やかに写っている。
「香都子さんは県立徳島高等女学校(現・城東高校)の先輩でもあり、懇意にしてもらった。美人だったんですよ。ミス徳島、ミセス徳島でした。私が小説家になってからも、ずいぶん写真を撮ってもらいました。実物よりいつも美人に撮ってくれた。とってもすてきなの」
こんな懐かしい思い出を、つい昨日の出来事のように話す寂聴さんの記憶の引き出しは、いったいどんなに多いのだろうと驚かされる。
5歳年上の姉・瀬戸内艶さん(1916~84年)について尋ねると「私たちは2人姉妹だったから、本当に仲がよかった。姉が家業の神仏具店を継いでくれたから、私の実家は今でも東大工町にあり、ずっと古里徳島とつながっていられる」と静かに話した。
夫と幼子を残し、出奔した若き日の寂聴さん。小説家になりたいという夢をかなえるために、古里から石もて追われる身になっても、信念を貫き通した。艶さんはそんな寂聴さんを最後まで古里から支え続けた。
寂聴さんの思い出と重なる古里徳島の人々。これからも講演や随筆作品の中で、追憶の日々が明かされるに違いない。
▷連載 瀬戸内寂聴が語る「わが徳島」(2011年掲載)
1:「いろいろなしがらみがあり、帰ることができなかった。その時『どうしても帰ってきてください』と言ってくれる人がいた」 古里への思い
2:入学式の翌日、学校の図書館で与謝野晶子訳「源氏物語」と出合う 少女時代
3:「徳島の青空は、どこよりもきれい。自慢していい」 古里の風景
4:モラエス、冤罪事件「徳島ラジオ商殺し事件」で殺人罪に問われた冨士茂子さん、立木写真館の思い出 徳島の人々との交流
5:「今日は取材はおしまい。いいでしょ」とビールをグラスに 記者との雑談で
6:主婦、OL、学生、会社員、公務員、喫茶店経営者…多様な人たちが学んだ寂聴塾 郷土の文化育む