瀬戸内寂聴さん(89)は、作家としての地位を確立してからも、常に新しい分野に挑戦し続けてきた。新作能、歌舞伎、浄瑠璃、狂言・・・、それは80代になってからも同じだった。

 「普通の作家なら、晩節を汚したくないと思うでしょう。失敗すると、みっともないから。私にもそんな不安はあったけど、つい好奇心や冒険心が顔を出し、引き受けてしまうのよ」

 オペラ「愛怨(あいえん)」の台本の執筆を依頼されたのは80歳のとき。作曲は同じ徳島市出身の三木稔さん(81)だ。

 「いくら向こう見ずの私も、さすがにすぐには応じられなかった。でも、がんと闘いながら、命をかけて日本史オペラを制作し続ける三木さんの熱意に負けました。今では、執筆させてもらって本当によかったと感謝している」

 オペラは2006年、東京の新国立劇場で初演。昨年のドイツ公演では、8回上演のロングランで連日満員になる大成功を収めた。会場へ赴き、最終公演を三木さんと一緒に鑑賞。カーテンコールでは、スタンディングオベーションで迎えられた。

徳島市のあわぎんホールで=2011年5月28日

 07年に徳島県内で開かれた国民文化祭では、人形浄瑠璃の台本「義経街道娘恋鏡」と「モラエス恋遍路」を書き上げた。徳島ゆかりの歴史上人物や文人を主人公に、得意の恋を絡めてドラマチックな物語に仕上げる展開はさすがだ。

 浄瑠璃に関する素養は、少女時代に既に出来上がっていたのかもしれない。

 「幼いころ、箱廻しが町を回ってくるのが、とても楽しみだった。ちょうど、一昔前の子どもが、紙芝居を待っていた気持ちと同じね。1銭であめをくれるの。すると、男の人が口三味線で浄瑠璃を歌いながら、人形を廻す」

 寂聴さんの記憶がまた、80年以上前の懐かしい徳島市の街角を映し出す。

 「子どもだから、意味は分からないんだけど、情緒があって、とてもよかった。男女の恋は、楽しいことばかりでもないみたい。世の中には悲しいこともある。人生や恋や、人の世の哀切を知ったのは、このときね。それが私の文学の根になっていると思う」

 随筆紀行「寂聴巡礼」や一遍を主人公にした「花に問え」など四国遍路を題材にした著作も多い。

 最近、四国遍路や遍路道を世界遺産に登録しようという機運が盛り上がっていると告げると、知らなかったようで「えっ、本当? それなら、もっとちゃんとしなきゃ。私は遍路道の旧道を生かさなければ、進展しないと思います」と、厳しいまなざしできっぱり言い切った。

 「自動車やバスが通っている道ではなくて、古い歩ける旧道を整備してほしい。阿波一国だけでもそれをしてくださいって、声を大にして言いたいですね」

 学校でも、お遍路さんが歩いた道がどんな道かを教えることが大切だという。核家族化が進み、家庭でそれができなくなった昨今ではなおさらだ。

 「夏休みには、阿波一国だけでもいいから、子どもに歩き遍路を体験させてほしいですね。体験すると、四国遍路の素晴らしさに気付くはずですから。徳島の人が札所巡りをしないで、他県からばかりお遍路さんが来るのって、おかしいものね。自分の足で遍路道を歩けば、ごみを捨てる人もいなくなるんじゃないかしら」

 伝統文化の継承に関して、現実的で分かりやすい提言を繰り返す寂聴さん。長い人生経験と僧侶としての修行に培われたその言葉の一つひとつが、徳島の財産かもしれない。

 

▷連載 瀬戸内寂聴が語る「わが徳島」(2011年掲載)

:「いろいろなしがらみがあり、帰ることができなかった。その時『どうしても帰ってきてください』と言ってくれる人がいた」 古里への思い

:入学式の翌日、学校の図書館で与謝野晶子訳「源氏物語」と出合う 少女時代

「徳島の青空は、どこよりもきれい。自慢していい」 古里の風景

:モラエス、冤罪事件「徳島ラジオ商殺し事件」で殺人罪に問われた冨士茂子さん、立木写真館の思い出 徳島の人々との交流

「今日は取材はおしまい。いいでしょ」とビールをグラスに 記者との雑談で

:主婦、OL、学生、会社員、公務員、喫茶店経営者…多様な人たちが学んだ寂聴塾 郷土の文化育む

:子ども時代に見た箱廻しで、人生や恋や人の世の哀切を知る 徳島の伝統文化から

:大雨の日でもナルト・サンガでの法話は決行 人々を癒やす

:「私のことを、どこへでも顔を出す、と悪く言う人もいますけど、私は求められるから、どこへでも行くんです」