阿南市・青木善子(89)

 私の実家は、徳島市の前川橋を北に渡って助任川に面した角にある。私は4人きょうだいの末っ子。父は大工の棟梁(とうりょう)で厳格な人、母はおとなしいがしっかりした人だった。兄は北朝鮮・平壌の鉄道会社に勤務、長姉は昭和16年に他界、父は徴用で大山の方へ行き、家には母と三つ違いの姉、私の3人が残された。父は徴用に行く前、防空壕を中庭、裏庭、軒下、道を隔てた川沿いに造ってくれた。

 昭和16年12月8日、日本の宣戦布告をラジオで知った。真珠湾攻撃は勝利に終わったが、戦局はだんだんと厳しくなってきた。助任国民学校6年のとき、授業に軍事訓練が加わり、竹やり、手旗信号、モールス信号の使い方を練習した。仲之町にある女学校に入学すると防空壕がない。警戒警報が発令されるたびに、東山手町にある瑞巌寺の裏山に逃げ込んだ。

 6月22日、登校するとすぐ空襲警報。「ドスン」という音とともにものすごい地響きがした。解除後、学校の向かいの病院前では、側溝に沿う道路に血だらけになった人たちが寝かされ、看護師さんたちが右往左往していた。秋田町に爆弾が投下されたと知り、初めて戦争の怖さを覚えた。

 26日には住吉町と助任国民学校の校庭に爆弾が投下された。住吉町では叔母と赤ちゃん、叔母の妹の3人が即死した。母は遺体が安置された寺に行って必死に頼んだが、対面はかなわなかった。

 いとこの赤ちゃんは、近所の人から「いつB29が来るか分からないから、昼間は壕に入れておいた方が安全」と教えられ、防空壕で寝かされたところ、地盤が緩んでいて天井が崩れて圧死。母もぼうぜんとするのみで、「どうして次々と悲しいことが起こるのだろう」と涙ながらに話したという。