今夏、全国高校野球選手権徳島大会が100回の節目を迎える。過去99回の歴史の中で甲子園に出場した徳島県勢は11校。このうち、県単独で代表校を甲子園に送り出すようになった1978年の第60回大会以降、池田、徳島商、鳴門工、鳴門が徳島大会で2連覇以上を達成した。4校を軸に、甲子園を懸けて激突したライバルたちの名勝負を振り返る。
 

[左]岡田康志 [右]中山寿人

 1979年。池田は春の選抜大会準々決勝で東洋大姫路(兵庫)と「雨中の激戦」として語られる死闘を演じた。九回に5点を奪う猛反撃も及ばず、7―8で敗れたが、74年春に準優勝した「さわやかイレブン」以来の旋風を巻き起こした。

 「打撃だけでなく機動力も見せることができた。負けはしたが満足感はあった」。主将だった岡田康志(57)=三好市池田町ウエノ、教員=がチームのパワーアップを実感していたように、この時点で夏の甲子園出場争いは、池田が一歩リードしていた。

 そこに、県春季大会で初優勝して勢いに乗る日和佐が立ちはだかる。

 

 日和佐は76年の学校創立50周年を機に野球部の強化に着手。海部郡内の中学校から有力選手を集め、多い日で1日6時間の猛練習を課し地力を付けた。チームの4番を務めた中山寿人(56)=徳島市春日2、教員=は「きつかったが(池田には)絶対に負けたくないという気持ちだった」と振り返る。

 四国大会出場校を決める4月22日の代表決定戦。県営鳴門球場(現鳴門オロナミンC球場)には2千人の観客が詰め掛けた。県春季大会を制した日和佐は大声援を背にエースが二回以降無失点。七回に中山らの集中打が生まれ、甲子園帰りの池田に4―1で逆転勝ちを収めた。四国大会でも準優勝と創部以来最高の成績を残した。

 「池田に勝ったことと、四国大会での1勝が夏への大きな自信になった」と中山。尾崎正司を擁して64年春の選抜大会で初出場初優勝を果たした海南以来となる、海部郡からの甲子園出場を射程圏内に入れた。

 一方、池田は代表決定戦で日和佐に敗れてから練習試合で勝てない時期が続いた。選抜大会出場の達成感が気の緩みにつながっていると感じた監督の蔦文也は「こんな状態では外へは連れて行かれへん」。招待試合を断るなどして、チームの引き締めを図った。

 迎えた夏の徳島大会。池田と日和佐だけでなく鳴門工、鳴門商も状態を上げていた。中山が「(4校の)どこが甲子園に出てもベスト8入りできる力があった」と話すように、いずれも順当に4強に駒を進めた。

 7月26日の準決勝で池田は第1試合で鳴門工に5―2で競り勝った。しかし第2試合の日和佐は4―7で鳴門商に逆転負け。「池田が先に決勝進出を決めたことで、気持ちが決勝へと先走ってしまった」と中山。最大のライバルを倒して甲子園に行く目標はかなわず、ベンチで泣き崩れた。
 

激戦の徳島大会を勝ち抜いた池田は、甲子園でも粘り強く戦い準優勝。決勝戦を終え、準優勝盾を持った主将の岡田を先頭にグラウンドを一周した=1979年8月21日、甲子園球場


 激戦の徳島大会は池田が制した。8年ぶり2度目で、初の春夏連続出場となった甲子園では、一戦ごとにチーム力が高まり、中京(愛知)や浪商(大阪)といった強豪を撃破。県勢としては58年の徳島商以来、21年ぶりの決勝進出を果たした。

 決勝で箕島(和歌山)に3―4で敗れたとはいえ、春夏連続で好成績を収めた池田の知名度は高まった。岡田は「県大会では甲子園を意識せず必死で戦った。その分、甲子園はリラックスして臨めた」と振り返る。

 池田の試合を準決勝からテレビ観戦したという中山は「負けた悔しさはあったが(池田と)対等に戦えたことが、その後の野球人生の自信になった」。最後の夏、直接対決はかなわなかったものの、ともにしのぎを削った日々に思いをはせた。

 

強敵に挑んだ夏<2> 池田編㊥ 徳島商(1982・83年)