今夏、全国高校野球選手権徳島大会が100回の節目を迎える。過去99回の歴史の中で甲子園に出場した徳島県勢は11校。このうち、県単独で代表校を甲子園に送り出すようになった1978年の第60回大会以降、池田、徳島商、鳴門工、鳴門が徳島大会で2連覇以上を達成した。4校を軸に、甲子園を懸けて激突したライバルたちの名勝負を振り返る。
 

[左]水野雄仁 [右]森岡稔人

 1981年に続く夏の甲子園出場を狙う徳島商にとって、最大の壁は池田だった。

 82年夏。「正直言って(連続出場は)非常に厳しい状況」。この年の4月から母校で指揮を執っていた森岡稔人(66)=阿南市見能林町東浦、保育園経営=は、大会前の報道取材に率直な気持ちを吐露したことを覚えている。

 池田は、県内ナンバーワン投手と言われた畠山準の入学後、甲子園出場を4季連続で逃していた。それでも「畠山さんがいれば甲子園に出られる」と、県内の有力選手が集まり戦力は充実。畠山ら3年生が最後の夏に懸ける意気込みには並々ならぬものがあった。

 7月30日の第64回徳島大会決勝は池田と徳島商が激突。当時2年生だった水野雄仁(52)=東京都、野球解説者=は「甲子園に出るか出ないかで進路が変わる。俺ら下級生は楽しくやってたけど先輩は全員、ガチガチだった」と張り詰めたチーム状態を思い出す。

 三回には守りのミスなどで3点のリードがあっという間になくなった。ベンチに重苦しい雰囲気が漂う中、「そんなことでどうする」。蔦文也監督の大声に畠山が発奮した。投げては四回以降を無安打無失点に抑え、打っては七回に追加点となる右越えソロ本塁打。自らの手で念願の甲子園出場を手繰り寄せた。

 ▽82年決勝
   池 田111 001 110 6
   徳島商003 000 000 3

 徳島商にもチャンスはあったが、池田の勢いにのまれ敗れた。夏の連覇を逃した一戦を森岡は「(畠山の)あの一発で彼のピッチングが調子づいてしまった。うちにとっては点差以上に痛かった」と振り返る。

 

優勝を決めてマウンドの畠山(中央)に駆け寄る池田ナイン=1982年7月30日、県営蔵本球場


 産みの苦しみを味わいながら、79年以来の夏の全国切符をつかんだ池田は、「やまびこ打線」と称された強打で県勢初の全国制覇を達成。翌83年の春の選抜大会で史上4校目となる夏春連覇を成し遂げた。

 「池高フィーバー」が頂点に達した83年夏。第65回徳島大会決勝は戦後初となる2年連続の同一カードとなった。リベンジに燃える徳島商は一回、水野を攻め立てて1点を先制。エース林博章の好投で投手戦となった。しかし七回に1点を勝ち越された後、八回に重盗などで2点を失い、勝負を決められた。

 ▽83年決勝
   池 田000 100 120 4
   徳島商100 000 000 1

 予想していた強打ではなく、機動力を使った奇襲攻撃に屈した徳島商。「池田は打撃がクローズアップされるが、それだけではない。水野を中心に点を与えない守りの意識も高かった」と森岡。失策は徳島商の2に対し、池田は0。攻守で力の差を見せ付けられての敗戦だった。

 池田の黄金期に対抗した徳島商は81年から83年にかけて、池田に公式戦6連敗。一方、池田は82年夏から83年夏まで、甲子園を含めて公式戦36連勝の快進撃を続けた。

 「甲子園で勝つことが大事だった。県大会は通過点だった」と水野が話すように、池田は甲子園で勝ち続けることで他を圧倒する強さを手に入れていた。森岡も「普段の2、3倍の練習をしないと勝てない、と選手にハッパを掛けてきたが、それをはるかに上回っていた」と当時の池田の強さを認める。夏春夏3連覇に挑んだ池田に対し、「蔦さんの指導力と選手の実力がうまくかみ合っていた。本当にいいチームだった」と賛辞を惜しまない。

 徳島商の執念は水野らが去った後に実った。84年夏から3季連続で甲子園に出場。新たな時代を築いた森岡は「高い壁に挑み続けたことで、チーム力は確実に上がっていった。池田のおかげ」と今でも思っている。

 

強敵に挑んだ夏<1> 池田編㊤ 日和佐(1979年)