2000年夏の徳島大会決勝は、4連覇を目指す徳島商と、初の決勝進出で勢いに乗る小松島の戦いとなった。

 「県内では絶対に負けない」。小松島の8番で左翼手だった伊藤剛生(35)=小松島市金磯町、団体職員=は、チームの戦力に並々ならぬ自信を持っていた。

[左]上原良作 [右]伊藤剛生

 小松島はこの年の県春季大会を制し、四国大会は1回戦で明徳義塾を破って準優勝。夏の大会は第1シードとして臨んだ。エースの清家直樹と4番浜田諭を含め、前年夏の徳島大会で4強入りしたメンバーと顔触れはほとんど同じだった。

 当時の小松島監督の森影浩彰が「これで勝てなければ、二度と甲子園には行けない」と話したという創部史上最強の布陣のチームは、下馬評でも優勝候補筆頭だった。

 一方の徳島商は3連覇中とはいえ、立場は挑戦者だった。1999年の秋季大会は準決勝で敗れ、春季大会は初戦の海南戦で4―7で敗退。副主将を務めた上原良作(35)=藍住町富吉、会社員=は「一冬を越しても結果が出なかった。この時ばかりはチーム全体が沈んだ」と振り返る。

 徳島商は97、98年と春夏4季連続で甲子園に出場。97年夏はベスト8入りを果たした。無敵を誇った上級生が去り、チームの戦力がやや低下した99年夏は、86~88年の池田以来となる徳島大会3連覇を達成。「夏に強い徳島商」を見せつけた。

 99年からレギュラーを張る上原は「夏だけは負けるわけにはいかない。甲子園出場にこだわった」と、史上初の4連覇が懸かった開幕時の心境を思い起こす。春先にどん底だったチームは、新指揮官の中﨑誠が猛練習で立て直し、夏の徳島大会はノーシードながら一戦ごとに力を付け、激戦区を勝ち上がった。

 ▽決勝
   小松島100 000 100 2
   徳島商100 101 02 ×    5

 互いの意地が交錯した決勝は、序盤からがっぷり四つとなった。一回に1点ずつを取り合うと、その後は、1点を争う攻防を続けながら試合のペースを早めた。

 いつ、どちらに流れが傾くか分からない展開。しかし小松島は四回、1死一、三塁のピンチから内野守備の乱れで1点を失った。すると、徳島商の応援席から地鳴りのような声援がグラウンドに届いた。伊藤は「勝ち越されて浮き足だったところに、ブラスバンドの大音量。完全に雰囲気にのまれた」。チームは徐々に追い詰められた。

 安打数は徳島商の8に対し小松島は6。互角の戦いを演じたが、徳島商は伝統校ならではの巧みな試合運びで六、八回と小刻みに加点。小松島は七回に1点を返すのが精いっぱいだった。
 

史上初の夏4連覇を達成し、喜びに沸く徳島商の選手たち=2000年7月26日、県営鳴門球場


 伊藤は「甲子園出場が懸かる試合は初めての経験。知らない間に自分にプレッシャーをかけてしまっていた。みんなの動きも最後まで硬かった」。一方、上原は「勝つために何をすればいいか、徳島商にはその答えがあった。猛練習はその一つだった」と話す。豊富な練習量に裏打ちされた自信が、前人未到の4連覇を呼び込んだ。

 初の甲子園出場に一歩届かなかった小松島。明暗は分かれたが、その後は翌01年の選抜大会を皮切りに、08年春までの間、春夏計4度の甲子園出場を経験した。

 伊藤は「あの試合を見た地元の中学生たちが、小松島に集まり、僕らができなかった甲子園出場を果たしてくれた」。敗れはしたが、チームをさらに強くしたあの日の決勝戦を、今でも誇りにしている。