徳島中央公園の南端に立つ「鷲の門」は、解体された徳島城で唯一残った建造物として知られる。徳島大空襲(1945年7月4日)で焼失し、現在の鷲の門は30年ほど前に復元された2代目である。
3代藩主・蜂須賀光隆の治世期(1652~1666年)、城郭の拡張に伴って建立された。当時、城の修復や増改築には厳しい制限があり、光隆は幕府に「鷲を飼うための通用門」と届け出て許しを得たため、「鷲の門」と呼ばれたと伝わる。実際に鷲が飼育されたかどうかは、はっきりしない。
また建立時期については、寛永4(1627)年の「幕府隠密徳島城見取図」に描かれていたり、藩がまとめた「阿淡年表秘録」の慶長8(1603)年の項に「鷲之門口番…」といった記述があったりするため、築城間もない時期か江戸時代初期には建てられていた―とする説も有力だ。
維新後の1875(明治8)年に徳島城が取り壊された際に、鷲の門は解体を逃れた。日露戦争の戦勝記念に1906(明治39)年、「徳島公園」が開設されて以降は明治、大正、昭和初期…と、徳島の近代の歩みを見守ってきた。残念なことに戦争末期の徳島大空襲に遭い、灰燼(かいじん)に帰した。
そんな鷲の門が再び姿を現したのは、「平成」に元号が代わった1989年。徳島市制100周年を記念し、東京で和裁専門学校を経営していた吉井ツルヱさん(徳島市出身、2000年に90歳で死去)によって復元・寄贈された。門本体は幅10・7メートル(うち間口は7・9メートル)、高さ6・7メートルだ。向かって左側の「番所長屋」が幅6・9メートル、右側の「腰掛け長屋」が幅5・9メートルで、高さはいずれも4・3メートル。戦前の実測図や現地での発掘調査結果に基づいて忠実に再現し、費用は3億円に上った。
9月27日の落成式には、44年ぶりに復活した鷲の門を一目見ようと、市民2万人が詰め掛けたという。
鷲の門は再建以降、新年には大きな門松としめ飾りが取り付けられ、正月気分を盛り上げる。鷲の門をくぐった広場では、春闘の時期に労働組合の集会、夏には音楽フェスティバルが開かれる。
忘れてならないのは、阿波踊りの季節が近づくと、踊り子たちや鳴り物奏者の練習場所となることだ。県都に夏の訪れを告げる風物詩であり、足を止めて見入ってしまうこともしばしばだ。この1、2年は新型コロナウイルス禍のため、こうした練習風景がほとんど見られなくなってしまった。コロナが収束し、「ぞめき」のお囃子(はやし)が聞かれる日が待ち遠しい。
〈2022・1・11〉