徳島市出身の人類学・考古学者、鳥居龍蔵(1870~1953年)が東京帝大助教授に就任したのは、1922(大正11)年1月のこと。今からちょうど100年前の出来事である。
小学校を中退し、正規の学校教育をほとんど受けていない人物が、最高学府の助教授(人類学教室主任)になったのだから、地元・徳島では〝快挙”と沸き立った。鳥居龍蔵52歳。立身出世の夢が「末は博士か、大臣か」といわれていた時代である。
そんな鳥居龍蔵が生まれたのは、徳島市中心部の東船場町1丁目。生家は、たばこを取り扱う大きな問屋だった。11歳の鳥居少年が山高帽にジャケットを羽織り、腰に手を当ててポーズを取った記念写真が残されている。裕福な一家に育ち、あか抜けた様子がうかがえる。
1889(明治22)年の市制施行時、徳島市の人口は約6万1000人で、金沢、仙台、広島に次ぐ全国10位の大都市だった。そんな町の中心部にある大店の息子だったのだから、小洒落(こじゃれ)た感じも、むべなるかな―である。
鳥居は1890年、恩師の人類学者・坪井正五郎の勧めに応じて上京。帝国大学理科大学の人類学教室標本整理係を振り出しに、東京帝大助手、講師を経て、助教授となるのであった。この間の1892年には徳島の家族も家をたたみ、一家で上京している。
東船場町の生家跡近くには「鳥居龍蔵博士生誕の地」の顕彰碑と、「アジア研究の先覚者 鳥居龍蔵博士」と銘打った陶板パネルが立つ。パネルには肖像写真、考古学・人類学・民族学の幅広いジャンルにまたがる業績、東アジア各地に及んだ調査地域の地図、「沖縄八重山の獅子舞」「台湾アミ族」など6枚の写真が紹介されている。
「鳥居博士は、日本はもとより海外にも目を向け、特に東アジアにおける広い地域で偉大な業績を残した。今日でもその輝きを失うことなく受け継がれている」。パネルに刻まれた顕彰の辞である。
〈2022・1・18〉