近世の阿波、淡路を領有した徳島藩主・蜂須賀家では、はじめの三代(小六正勝、家政、至鎮)をそれぞれ「家祖」「藩祖」「初代藩主」と呼ぶ。その訳は―。
蜂須賀家は、尾張国海東郡の蜂須賀郷(現・愛知県あま市)から出て、豊臣秀吉の天下取りを支えた戦国武将・小六正勝(1526~1586年)を「家祖」とする。大名家の中興の祖、という意味である。
正勝は、木曽川流域などで物資の運搬業に関わり「川筋集」「川並衆」と呼ばれる武装商業集団、あるいは土豪勢力のリーダーであったようだ。
その嫡男が、蜂須賀家政(1558~1638年)である。天正13(1585)年の四国攻めで主力部隊を務め、その功績を認められて、阿波国18万石を拝領した。秀吉は当初、股肱(ここう)の臣である正勝に与えようとしたが、正勝はこれを固辞。大坂城で秀吉の近くにいることを望んだため、代わって息子の家政が阿波国の領主となった。正勝は翌年には病没するので、死期を悟っていたのだろうか。
家政は天下分け目の関ケ原の合戦(1600年)で、豊臣家に阿波国の所領を返上し、自らは高野山に隠居する。その上で、嫡男・至鎮(1586~1620年)を東軍に参陣させた。至鎮はこれが初陣で、合戦前には家康の養女(血縁的にはひ孫)を妻に迎えている。そして東軍が勝利すると所領を安堵され、至鎮が改めて阿波国の領主となった。
ちなみに関ケ原の合戦時、徳島城は西軍総大将の毛利勢によって接収されている。城下は騒然としたことだろう。
至鎮はその後の大坂の陣でも、徳川方に参戦。目覚ましい武功を遂げ、淡路一国7万石を加増される。蜂須賀家は阿波・淡路二国持ちの大大名となり、石高は25万石に達した。
以上のような経緯から、蜂須賀家や徳島藩に関しては、正勝を「家祖」、家政を「藩祖」、そして至鎮を「初代藩主」としている。
つまり秀吉の時代は幕藩体制ではないので、家政を「藩主」とは呼べない。幕府を開く家康によって、所領安堵された至鎮こそが「初代藩主」なのである。ただそれに先立ち、家政が阿波国を拝領していたので「藩祖」と呼んでいるのだ。
なお、これらは「歴史用語」であり、当時(江戸時代)の人たちがそんなふうに呼んでいたわけではない。地元・徳島の研究者、学芸員たちの研究の積み重ねによって得られた「歴史を理解するための概念」である。こうした知見が、徳島藩の成り立ちを知る助けとなるのである。
〈2022・1・27〉