【上】夏の甲子園で快音を響かせる桒原さん。大会後、日本選抜チームに選ばれた=1987年8月、甲子園球場(桒原さん提供)【下】30歳で独立し大阪市で運送会社を営む桒原さん=同市

 思いがけない知らせだった。1987年8月。池田高校3年の桒原高志さん(49)=大阪市、運送会社社長=は米国に遠征する高校野球日本選抜チームの18人に選ばれた。

 「どうして俺が。信じられない」。登録されるはずの選手がけがのため外れ、急きょ抜てきされたのだった。背番号は18。当初は外野の控えという位置付けだったが、選抜チームの監督に評価され、4番を任された。

 その年の春に初めて甲子園でプレーし、ベスト4入り。夏も続けて出場した。ただ、30年たった今、聖地の記憶は薄い。覚えているのは春が初打席で足が震えたことと、準々決勝の甲府工戦でバックスクリーン横に本塁打を放ったことだけ。夏は2回戦で延長十回サヨナラ負けした瞬間のことぐらいしかない。米国遠征の方が印象に残っている。

 全7試合に出場し、4割近い打率を残して日本の全勝に大きく貢献。一躍、プロ野球のドラフト候補として注目された。プロを初めて意識したが、野球部長や両親からは「社会人に進んでからでもプロ入りは遅くない」と言われ、松下電器に進んだ。

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 社会人チームの強豪でも強打をアピールし、3年目には5番打者として定着した。ドラフト候補として毎年スポーツ紙をにぎわせたが、指名はなかった。「結果を残しているのに。力が足りないのか」と思い悩んだ。

 その後、足の半月板を痛めたことで満足のいくプレーができなくなる。練習を休みがちになり、志半ばのまま26歳で退部。会社での居場所もなくなり、退社を余儀なくされた。

 それからはアルバイトで生計を立てた。居酒屋、パチンコ店、日雇いの作業員・・・。割のいい職種をなるべく選んだ。その時、野球以外にできることはほどんどない、と痛感した。「健康で腕の力が強いことぐらいしか、誇れることがなかった」

 アルバイト生活を始めて2年が過ぎようとしていた頃、出合ったのが運送業だった。1カ月間、歳暮の配達をした。働きぶりを評価した会社から正社員になるよう勧められ、業界のノウハウを学んだ。30歳で独立し、運送会社を立ち上げた。

 当初は月の売り上げが6万円しかなく、ガソリン代を引けば一銭も残らなかった。軌道に乗ったのは約5年後。従業員も10人程度雇えるようになった。

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 「23歳までは充実してたけど、その後は苦しかった」。野球人生をそう振り返る。

 野球は吉野川市の森山小2年で始め、鴨島東中3年の時に「やまびこ打線」で知られる池田高からスカウトされた。

 寮生活を送り、食費は月7万円。迷惑を掛けている家族を活躍することで喜ばせ、故蔦文也監督に認めてもらおうと必死だった。怖かった蔦監督が「ジャイアンツ」とニックネームで呼んでくれたのが、チームの柱であることの証しのようでうれしかった。

 「周囲のおかげで今の自分がいる。その分、それ以上に家族や従業員を支えることで恩返しにしたい」。そんな思いでハンドルを握っている。

 

〈大会メモ〉 1987年 春の大会2連覇を狙った池田は、糸永紀之投手の3試合連続完投などでベスト4に進んだが、準決勝で関東一(東京)に4—7で敗れた。夏は池田が1回戦で八戸工大一(青森)に5—4で九回サヨナラ勝ち。2回戦では中京(愛知)に1—2で延長十回サヨナラ負けを喫した。PL学園(大阪)が史上4校目の春夏連覇を達成した。