【上】梅本安則さん【下】1942年・全国中等学校体育大会野球大会の対戦結果

 第2次世界大戦さなかの1942年、戦意高揚を目的に甲子園球場で開かれた全国中等学校体育大会野球大会で徳島商業学校(現徳島商高)が優勝してから29日で73年になる。文部省主導で行われたため「高校野球100年」の中では記録として残されず、「幻の甲子園」として語り継がれている。当時の7番・一塁手で、徳島大空襲も経験した梅本安則さん(88)=東京都葛飾区=は「一国存亡の時に甲子園でプレーできたことはかけがえのない体験だった」と忘れられない夏を述懐した。

 異例ずくめの大会だった。スコアボードには「勝ってかぶとの緒を締めよ」「戦い抜こう大東亜戦」との横断幕が掲げられ、空襲警報と誤認しないようサイレンは使用禁止。整列した選手たちが皇居の位置する東方へ一礼し、試合が始まった。選手は「選士」と称され、続行不可能でない限り交代を認められず、投球をよけることも許されなかった。

 出場したのは16校。稲原幸雄監督の指揮の下、徳島商は決勝までの全4試合を1点差でものにする勝負強さを見せた。京都の平安中(現龍谷大平安)との決勝は延長十一回の末、8-7でのサヨナラ勝ちだった。緊張と疲れから解放され、「やっと終わった」と安堵(あんど)した記憶が残る。「厳しいルールだったが、土もきれいに整備され、格段にプレーしやすかった。憧れの甲子園で試合ができて純粋にうれしかった」

 全国高校野球選手権大会の前身・全国中等学校優勝野球大会が初めて開かれたのは1915年8月。今年、100年の節目を迎えたが、42~45年は戦争の影響で中断された。文部省主催で行われた42年の野球大会は大会史に残らず、徳島商の優勝も幻といわれる。

 しかし、梅本さんは「私たちが甲子園でプレーしたのは揺るぎない事実」と強調する。優勝後、徳島駅に着くと、大勢の出迎えを受けた。学校まで吹奏楽団を先頭にパレード。全校生徒が祝賀会を開いてくれた。「驚くほど盛大な歓迎に心が温まった」と懐かしむ。

 当時、学校のグラウンドは軍事教練のため荒れ、破れたボールは家に持ち帰って縫った。恵まれない環境の中でつかんだ栄冠だった。

 45年7月4日の徳島大空襲では死の恐怖を感じながら吉野川の堤防へ走った。優勝記念品は焼失したが、77年に当時の海部俊樹文部大臣から、あらためて賞状と盾が贈られた。

 戦後70年。戦争を知らない球児に対し、梅本さんは「私たちの時代は特別だった。そういう時代もあったと思ってもらい、平和な時代に野球ができることの幸せを感じながら、思い切り精進してほしい」。一高校野球ファンとしての願いだ。