プロ野球を引退後不動産業の道に進んだ福良さん=徳島市

 スタンドは大きくどよめき、割れんばかりの拍手に包まれた。1996年夏の甲子園。新野高校の元主将福良徹さん(39)=山口県下関市、会社員=は、1回戦の日大山形戦の八回1死一、三塁の守りでセンター定位置に上がったフライを捕球し、本塁にノーバウンドで返球した。タッチアップした山形の三塁走者は、本塁に滑り込む間もなく立ち尽くしてアウト。新野の初白星に貢献した瞬間だった。

 「たまたまうまく投げられた」。このビッグプレー以外では目立たなかった「ごく普通の選手」にプロ8球団から調査書が届き、ドラフト会議では広島から4位指名された。観衆の視線をくぎ付けにした好返球が、憧れていたプロへの扉を開いた。

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ドラフト会議で広島から4位指名されチームメートに胴上げされる福良選手=1996年11月、阿南市の新野高

「プロでやっていけるのか」との不安もあったが開き直った。肩の強さと足の速さには自信があったからだ。

 ところが入団1年目の春季キャンプ前の合同トレーニングから嫌な予感が的中した。周りを見渡せば体格や打撃力で上回る選手ばかり。自慢の強肩と俊足はプロの世界では標準レベルで、2軍暮らしが続いた。

 4年目に外野手に空きができたため、初めて1軍に昇格した。ベンチに入り、試合の雰囲気を味わったが出番は回ってこない。すぐに2軍落ちし、再昇格することはなかった。

 けがにも悩まされた。1年目から両膝を故障して思うような練習ができなかった。「片方の足が良くなったらもう片方をかばうようになり、無理をすれば痛くなる。この繰り返しだった。新人選手にすぐ追い抜かれた」。不安だらけの毎日だった。

 結局、1軍の試合に出場する機会はなく、5年目に戦力外通告された。12球団合同トライアウトを受け、打撃も守備もアピールできたが吉報は届かなかった。

 社会人野球から誘われたが、待遇は「野球が仕事」の契約社員。仮に30代半ばまでプレーできても、すぐに解雇されることが予想され、それから新たな道を見つけるのは年齢的に難しいと思った。

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 「もう野球をやめる」。広島の球団関係者の紹介で不動産会社に就職した。その後は同業種の数社を渡り歩き、今の会社に入って7年目になる。

 23歳でプロを引退してから間もなく17年。今も「元カープの選手」と言われることがある。不動産業界に飛び込み、最初は他人と会話を交わすのもままならなかったが「野球の話は名刺代わりみたいなもの。話題づくりで随分と助けられた」と話す。

 甲子園では初陣ながら2勝を挙げ、確かな足跡を残した。「メンバーにも恵まれ、新野を選んで正解だった」

 来春の学校統合に伴い、母校の名称が使用される夏の大会は今年が最後となる。「後輩には練習の成果を出し切ってほしい。悔いのないように」。聖地で再び旋風を巻き起こすよう願っている。

〈大会メモ〉1996年夏 新野が1回戦で日大山形を2—0で下し、夏の大会で初勝利を挙げた。2回戦は明徳義塾(高知)に4—3で逆転勝ち。県予選を含めて逆転勝利は5試合に上り、「ミラクル新野」と呼ばれた。3回戦で2—8で敗れた松山商(愛媛)が大会を制した。