[上]1・2メートル間隔で並ぶ縦のルーバーが印象的な鳴門市文化会館[下]縦、横、斜めの線が交錯する同会館の中庭。増田友也が最後まで造形に力を注いだ

増田友也(1914~81年)の遺作となった鳴門市文化会館は、徳島県内でもひときわ高い評価を得ている建物である。県外の建築ファンがたびたび見学に訪れ、県内の建築家の多くも「徳島で最も好きな建物」に挙げている。旧建設省が98年に選定した「公共建築百選」では、県内から唯一この建物が選ばれた。

外観は、増田の建築に特徴的なコンクリート打ち放しで、東側や北側の壁にデザインされた縦のルーバーが建物の印象を支配している。1・2メートル間隔で並んだコン

 

クリートの羽板が厳格なリズムを刻み、室内に入る光にも変化が出るように計算されている。

撫養川の対岸から眺めると、ヨーロッパから切り取ってきたような建築的風景を創り出しているが、直近の耐震診断では「震度6強以上の地震で倒壊する危険性が高い」とされた。鳴門市は本年度中にも保存か解体かの検討に入るという。

文化会館は80年3月に着工し、82年5月に落成式を迎えた。だが、増田はその完成を見ることなく、81年8月にこの世を去る。享年66。病に倒れた。

京大教授を退官後、80年4月から福山大の教授になっていた増田は、その週の講義を終えると必ず鳴門の工事現場に立ち寄り、そして京都に帰るという生活を送っていた。本四架橋のなかった時代である。

  当初は週に1度のペースで鳴門を訪れていた増田だが、その頻度は次第に落ちていった。体調が優れなかったのだろう。

それでも増田は、この作品にすさまじい執念を見せた。現場で工事が始まっても、より良きものを求めて悩み、もがき、ぎりぎりまで図面に修正を加えた。文化会館の常駐工事監理主任だった河井恭一(71)=大阪府富田林市=は「『これが私の最後の作品だ』と、先生はずっとおっしゃっていた」と明かす。

「現場はどこまでできている?」

スタッフにそう聞きながら、工事現場で図面にどんどん朱を入れていく増田。その図面を清書するのは、河井と共に現場監理を担当していた白砂(しらすな)伸夫(65)=京都市、神戸国際大教授=の役目だった。「先生はいすに座っているのも苦しそうで、背もたれを胸の方に回し、抱きつくような姿勢で床に置いた図面を修正していた。現場の工事と図面の修正が、同時並行で進んでいった」と振り返る。

塩田跡地だったこの敷地に、増田が初めて踏み入ったのは71年春。当時、京大大学院の博士課程で学んでいた前田忠直(74)=京都市、京大名誉教授=を設計チーフに指名し、同じ敷地に建てる勤労青少年ホーム(75年)や老人福祉センター(77年)と合わせ、文化会館の検討を始めた。

文化会館の設計は、第1次石油ショック(73年)に伴う中断・縮小などを挟んで足かけ9年にわたり、最後の実施設計を終えた80年2月の段階でチーフの前田は設計から離れている。しかし、増田は工事が始まった現場でなお、「まだ建っていない・・・」と変更を重ねていった。

80年3月から基礎工事が始まり、1階部分が立ち上がる81年3月までの1年間に、増田は実に多くの立面(りつめん)に手を入れている。建物の入り口からホールの客席に至るまでの通路空間(ホワイエ)の突き当たりに位置する南側のルーバーは、当初は東側や北側のルーバーと同様、ガラス窓に対して垂直に設計されていたが、増田はこの部分の羽板だけを45度傾け、金色に塗るよう指示した。

東側入り口のキャノピー(ひさし)は角張った形から牛の角のように丸みを持たせ、西側の大道具搬入口に面した中庭も多彩な表情の壁を組み合わせながら、縦、横、斜めの線が交錯する豊かな空間をつくり上げた。河井によれば、中庭は増田が最後まで懸命に考えていた箇所だという。

妥協を許さず、もがき続けた増田の、渾身(こんしん)の作となった文化会館。その竣工(しゅんこう)写真が載った雑誌「新建築」82年10月号には中庭の造形も紹介され、増田が尊敬したモダニズム建築の旗手・前川國男(1905~86年)が賛辞を贈ったという逸話が残っている。