第78回選手権大会の新野対明徳義塾 5回途中から救援、明徳義塾の反撃を迎えガッツポーズする新野の小品貴志=1996年8月16日、甲子園

 第100回全国高校野球選手権徳島大会が7日、開幕する。出場校の一つ、新野は4月に阿南工と再編統合され、2、3年生にとっては現校名での最後の夏となる。1992年春と96年夏の2度、そして阿南市から唯一、甲子園を経験した野球部の歴史をひもとき、有終の美を飾ろうと意気込むチームを紹介する。

 

 新野の代名詞は次から次に安打が飛び出す「タケノコ打線」。そして劣勢から試合をひっくり返す「ミラクル新野」。ミスを恐れず伸び伸びとプレーする姿は、今も高校野球ファンに鮮烈な印象を残す。

 徳島県勢で春と夏の甲子園で勝利を挙げたのは徳島商、池田、鳴門、鳴門渦潮、新野、小松島の6校。このうち新野は春が1勝1敗、夏が2勝1敗。甲子園に2度以上出場し、通算で勝ち越しているのは池田、鳴門と新野の3校だけだ。

 だが、甲子園への道は平たんではなかった。創部は1950年。初陣はその年の夏の徳島大会で、1回戦で池田に2−12の五回コールド負けを喫した。公式戦初勝利は55年夏の徳島大会。穴吹に12—5の七回コールド勝ちだった。60年は春夏秋のいずれもベスト8まで勝ち進み、65年春には初の4強入りを果たすなど着実に力を付けていった。

 70年代に入ると部員不足もあって長く低迷した。そこでチームの再建に乗り出したのが、88年に赴任した現監督の中山寿人(56)=徳島市春日2=だった。「荒れ放題のグラウンドの整備から始まった」と中山は当時を懐かしむ。

 同年秋の監督就任後は、一日6時間の猛練習で選手を鍛え上げた。エースの生田哲也、主将の中川雅史ら力のある選手がそろった91年秋に県大会で初優勝。勢いそのままに四国大会で準優勝し、創部42年目で悲願の甲子園切符をつかんだ。

 甲子園でも気後れすることなく戦った。出場32校中、最も少ない部員18人ながら強豪・横浜(神奈川)との1回戦では、1−3の劣勢から八回に打者10人で6安打6得点と「タケノコ打線」の本領を発揮し見事、聖地初勝利を飾った。

 96年夏はまさに「ミラクル新野」だった。4月からOBの安永潔(60)=阿南市横見町五反地=が監督に就任。選手の個性と自主性を重んじる安永の指導が、伸び伸びプレーが信条のチームカラーとうまくかみ合った。

 徳島大会では3回戦から決勝まで4試合連続の逆転勝ち。安永が「個々のレベルが高く、優勝できると思っていた」と振り返るように、土壇場で勝負強さを発揮した。

 初めての夏の甲子園でも快進撃は続いた。1回戦の日大山形戦は中堅手で主将の福良徹(元広島)による本塁刺殺のビッグプレーもあって2−0で快勝。明徳義塾(高知)との2回戦は終盤に逆転し、4−3で競り勝った。3回戦で優勝した松山商に2−8で敗れたものの、試合ごとにヒーローが入れ替わる戦いぶりにベンチもアルプススタンドも大いに沸いた。

 常勝チームではなかったが、地元から愛され続けた。甲子園出場時の新野町の人口は約5千人。4千人ほどに減った今も、練習試合には多くの住民がグラウンドに足を運ぶ。

 96年の夏を最後に聖地から遠ざかっているが「山に囲まれた町に打球音が響き渡る。田舎町の野球部は、今もみんなのよりどころ」と安永。最後の夏を前に、地域を元気付けてきた存在の大きさをかみしめている。