復帰50年記念の企画展について説明する藤原さん。戦跡ガイドとして平和への思いを伝えている=沖縄県南風原町の南風原文化センター

 沖縄本島の南部、那覇市に隣接する南風原(はえばる)町の文化センターで、本土復帰50年にちなんだユニークな企画展が開かれている。「私たちが『日本』にかえったとき」と題し、復帰当時の思いや記憶を町民から集めて紹介したものだ。

 「これは面白いよね。中には『雪が降ると思った』なんて人もいる」。つるぎ町貞光出身で、沖縄県徳島県人会長の藤原政勝さん(81)=南風原町=は、メッセージを眺めてほほ笑む。

 「やっぱり『基地がなくなると思った』が多いかな。激しい戦争があった沖縄の人たちは、平和な暮らしを望んでいたんだろうね」

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 藤原さんは本土復帰直後の1972年7月、沖縄で暮らし始めた。本土で事業に行き詰まり、旅で訪れたまま居着いたという。以来、自動車修理会社で働くなどして、復帰50年の沖縄と共に半生を歩んできた。

 「でも正直、目の前の仕事に精いっぱいで、移住してからも沖縄の歴史を詳しくは知らなかった」と話す。しかし近年、平和について深く考えるようになった。文化センターに事務局を置く戦跡ガイドも務め、沖縄戦の記憶の継承活動に取り組んでいる。

 きっかけは地域に残る戦跡、沖縄陸軍病院南風原壕(ごう)群だった。沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の教師・生徒でつくる「ひめゆり学徒隊」が、傷病者の看護に従事した病院壕として広く知られる。

 1990年に第2次世界大戦の戦争遺跡として全国で初めて文化財に指定。保存状態の良かった病院壕の20号壕が、2007年に一般公開された。この時、戦跡ガイドを募集していると知った藤原さんは、養成講座を受け、新たに発足した「南風原平和ガイドの会」の初代会長に就いた。

 翌08年、ある不思議な体験が、ガイドとしての自覚を一層強くさせた。沖縄伝統の先祖供養・清明祭(シーミー)で、糸満市の平和祈念公園を訪れたときのこと。園内の石碑「平和の礎(いしじ)」を眺めていると、父の名前が刻まれているのを見つけた。あまりの驚きに言葉を失った。父のことは「南洋で戦死した」とだけ、家族から聞かされていた。

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 「まさか亡くなったのが沖縄だとは考えもしなかった」。詳しく調べるうち、父が戦時中に所属していた安謝(あじゃ)基地(那覇市)が、移住後に働いていた職場のすぐ近くだったことも分かった。

 「私は平和ガイドであり、沖縄戦の遺族だった。偶然の重なりかもしれないが、沖縄に来るべくして来たのかな、これも運命かなと思えた」と藤原さんは言う。

 現在も週1日、「ひめゆりの戦跡」で見学者を案内する。徳島とのつながりも大切し、知人の紹介で牟岐中学校とのオンライン平和学習にも携わる。

 本土復帰50年、終戦から77年。沖縄県民の4人に1人が犠牲になった沖縄戦の当事者も少なくなり、戦争の記憶が遠ざかりつつある。藤原さんは父が負傷して運ばれたかもしれない病院壕で、これからも戦争の悲惨さ、平和の尊さを語り続けていく。

 

【連載・復帰50年を見つめて~沖縄と徳島から】米統治下に置かれていた沖縄が、日本に復帰してから15日で50年。沖縄と徳島に関わりのある人たちは、これまでの歩みと今をどう見つめているのか。その思いに迫る。
https://www.topics.or.jp/subcategory/復帰50年を見つめて~沖縄と徳島から