南米チリ沖で発生した巨大地震による津波が徳島県を含む日本の太平洋沿岸を襲った「チリ地震津波」から24日で62年を迎える。地震を伴わず、未明の時間帯に突然押し寄せた津波は各地に大きな被害をもたらした。県内では死者はいなかったものの、阿南市など県南部を中心に家屋や道路が泥の波にのまれた。被災者は当時を振り返り、「地震がなくても津波が来ることはある」「災害は南海地震だけではない」と警鐘を鳴らす。
「なぜ、地震がないのに津波?」
海陽町浅川の横島俊介さん(75)はチリ地震発生当時、中学3年生だった。夜中に試験勉強をしていると、午前4時半ごろに「津波じゃー。はよう逃げえ」と叫ぶ声が聞こえた。飛び上がるほど驚き、家族を起こして薄明かりの中を近くの山へ向かった。「なんで地震が起きてないのに津波が来るんだろう」と不思議に思いながら夢中で走ったという。
山から浅川湾を見下ろすと、引き波で漁港の水はほとんどなくなり、漁船は腹を海の底に着けて傾いていた。浅川小学校の運動場に津波が押し寄せてくるのも見た。
波が静まって山から下りると、至るところが水浸し。漁船のいくつかが流されたり、破損したりしていた。「津波っていうのはただごとでない。自然のエネルギーってこんなに大きいのか」と驚いた。
最初に聞いた「津波じゃー」という声の主は、川の近くに住む一つ下の学年の女の子だった。ゴーと水が流れる音で目が覚めたと後に聞いた。
横島さんが生まれたのは昭和南海地震の2週間余り後。浅川地区では85人が犠牲になった。地震を生き延びた家族からは「大きく揺れたらすぐに高台に逃げろ」と言い聞かされて育った。チリ地震の津波を経験し、「地震のない津波」があることを学んだ。「津波からはとにかく迷わず逃げることが大事だ」と繰り返した。
「南海地震だけが災害ではない」
「終戦翌年(46年)の昭和南海地震で被害を受けた田んぼや道路がやっと復興したと思っていた頃に起きたのがチリ地震の津波。その時の気持ちは経験しないと分からないでしょう」。阿南市橘町の岡部文(すすむ)さん(97)はそう振り返る。県内では床上・床下浸水した住宅が2千戸余りに上った。最も被害が大きかった同町では2.5㍍以上の高さの津波に襲われたと推定され、半数を超える住宅が床上浸水した。
先祖の家が安政南海地震(1854年)の津波で流され、高台に建て直していたため、岡部さんの自宅は無事だった。しかし、植えたばかりの稲はだめになった。橘町内の水稲はほぼ全滅したという。
「100年に1度来るといわれる南海地震だけが災害ではない」と強調する岡部さん。地元の鵠和光神社に正平地震(1361年)からチリ地震まで計7回の地震・津波を記した石碑を建て、住民の被災体験をまとめた「恐怖の大津波」を自費出版している。「人は経験を忘れてしまう。記録しておけば、関心を持つ人も出てくる」。
チリ地震津波 1960年5月23日午前4時過ぎ(日本時間)にチリ沖で巨大地震が発生し、徳島県には1日たった24日午前4時ごろに津波の第1波が到達した。岩手県や宮城県の三陸沿岸地域を中心に、全国で142人の死者・行方不明者が出た。当時、気象庁には遠方の地震による津波を予測する体制がなく、警報が出たのは津波が日本に到達した後だった。これをきっかけに遠地津波に備える体制がつくられた。