人柱伝説の石積みが残る福島橋=徳島市

人柱伝説の石積みが残る福島橋=徳島市

 徳島市中心部と福島・沖洲方面を結ぶ「福島橋」は江戸時代、旅の巡礼者を「人柱」に立てた伝説が残る。徳島で最も知られた怪異譚の一つであり、現在も往時の遺構(石積みの橋脚)が残る。

 人柱とは橋を架けたり、築堤・築城などで難工事が予想される際、人を生きたまま水底や土中に埋めることを言う。荒ぶる神を鎮め、完成を期するための「いきにえ」「人身御供」である。

 福島橋がいつ架かったのかは定かでないが、2代徳島藩主・忠英の治世の寛永13(1636)年までに完成した絵図や、延宝2(1674)年に藩が幕府に提出した絵図に描かれている。それ以前は「渡し」が使われていたようだ。

 福島橋は、徳島城を取り囲んで「ひょうたん島」を形成する川の一つ、福島川に架かる。江戸時代には寺島橋(徳島橋)、助任橋とともに、徳島城につながる重要な交通の要路だった。これら3カ所には門台と番所が設けられ、人の出入りを厳しく監視していた。

 このように、城下の支配体制整備のため架橋工事が急がれたのだが、いかんせん福島橋の架橋地点は水深が深く、流れも早かった。そこで石積みの土台を安定させるために「工事に取り掛かる日の夜の亥の刻に、ここを通る人を人柱にしよう」と決めた。

 そして同時刻、諸国を巡礼する「六十六部廻国聖」がたまたま通り掛かった。六十六部とは全国66カ国をへめぐり、法華経を納める旅僧である。住民の懇願を受け入れた六十六部は自ら棺に入り、青石を積んだ橋脚の中に埋められた。その中からは49日間、鉦(かね)を鳴らす音が続いたそうだ。

 人柱の犠牲者を巡ってはほかに山伏説、遍路説、六人の乙女説もある。山伏説については、明治10年頃まで毎年大みそかの深夜2時前後になると、川の底から鉦を鳴らす音が聞こえたため、大みそかに福島橋を渡る人はいなかったと伝わる。

 福島橋はその後、1878(明治11)年、1934年(昭和9年)、1961(同36)年に掛け替えられ、現在の福島橋は2004年に完成した5代目だ。

 片道2車線の車道から大きく切り離される形で、湾曲して広い歩道が付けられている。「人柱伝説」の橋脚が撤去されたり、隠れてしまったりしないように、工事施工者の県が配慮したためだ。青石積みの橋脚は歩道から眺められるようになっており、案内パネルも取り付けられている。

 徳島市の「とくしま市民遺産」にも選定されている。

〈2022・6・1〉

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