第32回大会の開会式で入場行進する鳴門の選手たち。快進撃を続け準優勝を果たす=1950年8月13日、甲子園球場

 太平洋戦争が終わった翌年の1946年、6年ぶりに全国中学校優勝野球大会が開かれた。学制改革により第30回大会(48年)からは名称が現在の全国高校野球選手権となり、四国4県で一つだった出場枠が変更。北四国(愛媛、香川)と南四国(徳島、高知)で1校ずつ出られるようになり、徳島県勢のチャンスが広がった。

 第31回大会(49年)は徳島商(当時の校名は城東)、第32回大会(50年)は鳴門が出場。県勢が初めて2年連続で夏の甲子園に駒を進めた。徳島商は春の選抜大会では、第19回(47年)の日本一を含め49年までに9勝を挙げていたが、夏は未勝利。第31回大会も初戦で大敗した。

 初出場となった鳴門は、1回戦で明石(兵庫)を破り、県勢初の歴史的な白星を飾った。0―2で迎えた四、五回裏に集中打で2点ずつ挙げて逆転した。

 勢いは続く。2回戦の新宮(和歌山)戦を13安打の猛攻で勝つと、準々決勝の米子東(鳥取)戦は七回に打線が爆発し逆転勝ち。準決勝の済々黌(熊本)戦は一回に5点を奪いリードを守った。

 ついに決勝まで駆け上がり、松山東(愛媛、現松山商)と対戦。4―4で迎えた七回裏に一挙7点を失い、八回表に連続長打で4点を奪う粘りを見せたものの及ばず準優勝に終わった。

 2回戦以降、3年の近藤義生、1年の栗橋博両投手の継投で勝ち上がった。決勝は初めて栗橋が先発。近藤が四回の攻撃時に滑り込んだ際、利き手の右人差し指を突き指し、七回のピンチに栗橋を救援できない不運に見舞われたことも響いた。

 快進撃の要因となったのが打撃力だ。松田速馬監督は、アッパースイングが主流の時代に、腰を入れて上から強くたたく打法を選手たちに身に付けさせた。破壊力あふれる打線は、鳴門海峡の激しい潮流に見立てて「渦潮打線」と呼ばれた。

 チーム打率3割6分2厘と通算64安打は、当時の大会新記録。攻守交代時に選手がきびきびと動く「全力疾走」も初めてとされ、高校野球ファンの注目を集めた。

 鳴門は第23回選抜大会(51年)で優勝し、第24回大会(52年)も準優勝を果たした。しかし、この年夏の第34回大会(同)は、初戦の2回戦で松山商に敗戦。2年前の決勝の雪辱はならなかった。徳島県勢はその後3年間、南四国大会で高知県勢に甲子園出場を阻まれる。 (敬称略)