第38回大会(1956年)は徳島商が南四国大会を勝ち抜き、4年ぶりに徳島県勢として甲子園の土を踏んだが、1回戦で敗退した。記念大会となった第40回(58年)は史上初めて全都道府県(当時米国の施政下だった沖縄も含む)から47校が出場。徳島代表の徳島商は大会屈指の好投手板東英二を擁し、大活躍を見せた。

 板東は剛速球と切れのあるカーブ、シュートを武器に、初戦となる2回戦の秋田商(秋田)戦で17三振を奪い完封し、同校夏の甲子園初勝利に貢献。3回戦の八女(福岡)戦は15奪三振で4安打1失点に抑えた。

 準々決勝の魚津(富山)戦は、大会史に残る名勝負となる。板東と、低めにカーブを集める村椿輝雄投手との投げ合いで0―0が続き、同大会から新たに規定された延長18回での打ち切り再試合が初めて適用された。

 板東は二回1死満塁のピンチ以外は得点の足がかりを許さなかった。一方、打線は七回2死満塁、九回無死二塁など好機を何度かつかみながらあと1本が出なかった。

 翌日の再試合は板東が登板したのに対し、村椿は3回戦から3連投となることもあり、別の投手が先発した。徳商打線が四回に先制点を挙げ、この回途中から交代した村椿も打ち込み勝負をつけた。

 続く準決勝の作新学院(栃木)戦は、1―1の九回に連打を浴びせて3点を奪い、競り勝った。決勝の柳井(山口)戦は、板東が連投の疲れから14安打を浴び敗れた。板東の大会通算83奪三振は、今も破られていない大記録だ。

 全国に名をとどろかせた徳島商は、甲子園常連校になっていく。第42回(60年)は、破壊力ある打線が持ち味の大型チームとして臨んだ。中村健主将が開会式で力強く選手宣誓。1回戦の享栄商(愛知、現享栄)戦は、長短12安打を集め打ち勝つ。春の選抜大会準優勝の米子東(鳥取)が相手の2回戦は、八回に打者一巡の猛攻で一挙6点を奪い圧勝した。

 準々決勝の大宮(埼玉)戦は、0―3の五回に長短打で4点を挙げ逆転し、六、八回にも1点ずつ加えて突き放した。準決勝の静岡(静岡)戦は、六回に1点を先制したものの、逆転されて決勝進出はならなかった。

 第44回(62年)は春の選抜大会準優勝の日大三(東京)に開幕戦で敗退。第45回(63年)、第47回(65年)はともに1回戦を猛打で突破したが、2回戦で姿を消した。

 第48回(66年)は、鳴門が14年ぶりに出場した。1回戦の修徳(東京)戦で二回に2死から走者をため、押し出し四球と適時打で3点を挙げて完封勝ち。2回戦の小倉工(福岡)戦は1―1の八回に決勝適時打を喫し、16年前に初出場で準優勝した渦潮旋風の再来はならなかった。 (敬称略)