沖縄愛楽園の礎を築いた青木恵哉の銅像=沖縄県名護市

沖縄愛楽園の礎を築いた青木恵哉の銅像=沖縄県名護市

 ハンセン病患者にして、キリスト教伝道者。徳島県阿南市出身の青木恵哉(あおき・けいさい、1893~1969年)は、国立療養所沖縄愛楽園(沖縄県名護市)の礎を築いた人物である。愛楽園の一角には頌徳碑(しょうとくひ)や銅像などのモニュメントが立ち、「沖縄救癩(きゅうらい)の先駆者」の遺徳をしのばせる。

 16歳でハンセン病を発症し、病気平癒を祈って3度の四国遍路をするも回復はならず、大島療養所(現・大島青松園、香川県)に入所。ここでキリスト教に入信する。さらに転院した熊本回春病院で、イギリス聖公会(英国国教会、アングリカン・チャーチ)のハンナ・リデル師から、沖縄での布教とハンセン病患者の救済を託される。

 34歳で沖縄に渡った青木は信徒とともに安住の地を求めるが、地域住民の偏見や無理解から、襲撃や焼き打ちなどの激しい迫害に遭う。苦難の末、1935年に沖縄北部の屋我地島大堂原の地に、信徒ら15人で上陸し、ここを生活の場とする。ガマ(自然壕)の中で風雨を避ける暮らしだった。窮状を見かねた沖縄のキリスト教者らによって「沖縄MTL相談所」が設置され、1938年には「国頭愛楽園」が開設された。

 しかし1944年10月10日の米軍による空襲、いわゆる「10・10空襲」で、療養施設の大半が焼失。米軍の資料に療養所の建物が「バラック」と記載されていたため、米軍が「兵舎」と判断して標的としたともされる。米軍は上陸後にここがハンセン病療養施設だと知って驚き、支援物資などを運び込んだという。

 青木は、詩や俳句を詠む人だった。遺句集『一葉(ひとは)』から、数句紹介する。

〈痛み経て真珠となりし貝の春〉
〈踏青や十万坪の別天地〉
〈妻子なき一代信徒落葉降る〉

 このうち〈痛み経て―〉の句が、1971年建立の頌徳碑に刻まれている。

 碑は徳島県から寄贈された青石製で、揮毫(きごう)は当時の徳島県知事・武市恭信。「ひめゆりの塔」のレリーフも制作した玉那覇正吉・琉球大教授が設計し、沖縄初の芥川賞作家・大城立裕が碑文の筆をとった。

 その後、2005年には銅像が建立された。これらのモニュメントが立つのは、まさに青木らが屋我地島に上陸した場所であり、目の前には東シナ海が広がる。

〈2022・6・15〉

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