兵士として見た徳島大空襲の様子を語る大石さん=徳島市北常三島町3の自宅

 徳島市の市街地が焦土と化し、約千人の死者を出した徳島大空襲から7月4日で77年を迎える。当時18歳だった大石正さん(95)=同市北常三島町3=は、歩兵連隊の兵士として大空襲に向き合った。「一般市民ではない立場から見た大空襲の様子や部隊の動きを伝えたい」。4日、あわぎんホールで開かれる「徳島大空襲を語るつどい」(反核・憲法フォーラム徳島主催)で体験を語る。

 大石さんは1945年6月、徳島市蔵本町にあった歩兵連隊の第2機関銃中隊4班に配属された。空襲があったのは業務や訓練にようやく慣れてきた頃。7月3日夜、敵機襲来を告げる警報が鳴り響くと、すぐさま仲間と共に集合した。「点か、線か」。燃えているのが限定的か広範囲かを確認する上官の問いに、他の兵士が「線です」と答えるのを聞き、被害の大きさを想像した。

 その後部隊は現在の西部公園に移動。先輩兵士らが機関銃を構え、大石さんも弾運びなどの補助に付いた。はっきりと目視できたわけではないが、市街地には米軍のB29爆撃機が交代で飛来し、場所を移しながら焼夷(しょうい)弾を落とす「波状攻撃」を仕掛けているようだった。

 攻撃場所は東から西へと移り、次第にB29が「ゴー」という音を立てて頭上を飛ぶようになった。「いよいよ撃つのか」と緊張したが、結局空襲が終わるまで上官から発射命令は出ず、大石さんらは無傷で4日の朝を迎えた。

 「多くの人が逃げ惑い、亡くなる中で『兵隊は何をしよるんじゃ』と思っていただろう」と振り返る。亡くなった人々を気の毒に思う一方で、「あのとき部隊がB29を攻撃していれば蔵本町一帯も反撃を受けて火の海になり、さらなる被害を出していた。それを防ぎたくて上官は『撃つな』という命令を下したのでは」と推察する。戦時中は命をてんびんに掛けざるを得なかったという。

 77年の歳月がたつが、ロシアによるウクライナ侵攻などいまだ世界から理不尽な争いは無くならない。「戦争体験者が亡くなっていく中、その悲惨さを伝えていかなければならない。若い世代に知ってもらい、同じことを決して繰り返してはならない」と語気を強めた。

 つどいは4日午後6~8時。大石さんが体験を語るほか、大空襲の惨状を水彩画に描き続け、今年2月に亡くなった山中夫佐子さん=享年(92)=の作品47点を展示する。山中さんは語り部として3回登壇するなど、つどいとの関わりも深かった。資料代500円。問い合わせは反核・憲法フォーラム徳島、電話088(662)4678。