徳島大空襲があった1945年7月4日。77年前のこの日、徳島の人たちはどんな経験をして、何を感じたのでしょうか。新町国民小学校の1年生だった井沢忠昭さん(84)=阿南市=は弟、母と一緒に新町川に逃げ込んだそうです。岡本羊五さん(91)=徳島市=は妹や弟を畑に逃がし、家が燃えないよう母とバケツリレーで必死に水を掛け続けました。その年の3月に父が他界し、生まれ育った徳島市紺屋町から藍住町に引っ越したばかりだった堀川壽美子さん(84)=藍住町=は「もし、引っ越していなかったら」と考えます。夜が明けて昇った太陽は煙で覆われ、薄暗い鉛色だったと香川博美さん(86)=徳島市=は記憶しています。徳島新聞の投稿企画「記憶のかけらを集めて× #あちこちのすずさん」にこれまでに寄せられた読者の経験から、当時を振り返ります。

77年前の徳島大空襲 市の6割焼失 無差別攻撃で1000人犠牲に

 

「おにぎりの味」 阿南市 井沢忠昭(84) 

 新町国民小学校に入学した年の夏、夜中に空襲警報のサイレンがなり、僕は母と弟の3人で防空壕に入りました。リュックサックを背負って水筒を下げ、防空頭巾をかぶって中にいましたが、外が騒がしくなり、「早く早く、みんな新町川へ行け」という声が聞こえました。壕から出て周囲を見てびっくり。自分の家も、隣の家も、向かいの家も、みんな燃えていました。

 町内会のおじさんから「新町川に行け」と言われ、母と弟と私は防火用水に漬けてびしょびしょになった夏布団を頭からかぶり、次々と焼夷弾が落ちて焼け落ちる中を新町川に逃げ込みました。

 川に入ると、周りでは知り合いのおじさんやおばさんが「けがはないで」と励まし合ったり、やけどをしている人を助けたりしていました。夜中なのに昼間のような明るさでした。「〇〇家のおじいさん、気の毒に亡くなったんよ」「〇〇家のおばさん、大けがしたんやって」と話し合っている様子は鮮明に覚えています。

 焼け跡のまだ熱い道を通って自宅のあった場所に行くと、家は崩れ落ち、煙がくすぶっていました。大切にしていたビー玉もどこにあるか全然分からずに困っていましたが、その横で母が泣き崩れていた姿が目に焼き付いています。

 町内会のおじさんに促されて新町小学校に行くと、けがをした人や亡くなった人が運動場のムシロの上に横たわっていました。

 八万国防婦人会の人がおにぎりを1個ずつ配ってくれました。真っ白のごはんに梅干しを入れただけのおにぎりでしたが、家では麦ご飯などばかりで白いごはんは食べたことがなかったため、とてもおいしく、今でもその味は忘れていません。

徳島大空襲で焼け野原となった77年前の徳島市街地(県立博物館提供)

 

「父が生きていたら」藍住町 堀川壽美子(84)

 徳島市紺屋町で生まれた。隣は仁木果物店、立木写真館、そしてわが家は和菓子の店、竹虎堂を営んでいた。そこで小学校1年生まで暮らした。昭和20年3月、父が他界。私は7歳、弟は2歳、妹は5歳、姉は14歳。

 働いていた若い人たちは兵隊に召集され、砂糖や水飴の入荷もままならず、開店休業状態だった和菓子店。父亡き後、閉じた。

 すぐに今の藍住町にある母の実家に疎開した。和菓子の陳列棚、包装紙、釜、鍋、もろぶた、臼、たんす、仏壇ともろもろの荷物を荷馬車で数日かけて運んだらしい。

 徳島大空襲があった7月4日は、戦災に遭わずに生き延びた。母の実家で漬物タンクを改造した防空壕へ避難した。しばらくすると大人たちががやがやと土手の方へ。我々も防空壕から出て土手に上ると、前方に広がる闇夜の空は見たこともない明るさ。何が起きたか分からなかったが、「徳島が空襲でやられた」という大人の言葉に、「数カ月前まで暮らしていた自分の家もみんな焼けたのだろうな」とぼーっとしていた。

 紺屋町辺りは戦禍がひどかった。父がもう少し生きて、そこで暮らしていれば我々は生きていなかったかもしれない。父の死が、親子5人の生死を分けた。

徳島大空襲で焼け残った三河家住宅(徳島市富田浜)。内部には焼夷弾の焼け跡と見られる部分もある。2007年、国の重要文化財に。 

「父との思い出」徳島市 岡本羊五(91)

 昭和20年7月3日の夕方から4日の明け方までの出来事です。私たち家族は長年、父の仕事の関係で外地に住んでいました。しかし、私は中学入学のため昭和18年に、母と弟妹は戦況悪化のため20年に、父の郷里徳島へ帰され、父だけが残って仕事を続けていました。その頃は毎日のように米軍の空襲がありました。

 あの日の夜も空襲警報が出たので中学3年だった私は弟2人と妹2人を向かい側の畑に連れて行き、「ここから動くなよ」と言い残して母の待つ家に戻りました。家の中を走り抜けられるように障子や戸を取り外している最中に、警報は解除。弟や妹を迎えに行こうとしていた矢先、また警報発令となりました。

 地上から撃つ高射砲が夜空にさく裂するちょっと上を、B29があざ笑うかのように飛んで焼夷弾をばらまいていました。2階の窓から見ると、市の中心部から焼け始め、周囲に広がっていくように見えました。

 前庭の方で音がしたので走って行くと、六角形で棒状の焼夷弾が落ちています。まだ発火していなかったので、とっさにつかんで誰もいない裏の畑に投げ捨てました。家の裏側に回ると、隣接する長屋の軒先で焼夷弾が燃え始めています。どんどん燃え広がり、一番近いわが家の便所の外壁は触れないぐらい熱くなっていました。

 父が勲章を受けた記念と、自分より先に内地に帰る妻子のために父が購入した家。「父のためにも焼いてたまるか」と思いながら、母とバケツリレーで水を掛け続けました。

 火災も収まった明け方近く、畑に弟妹たちを迎えに行きました。口々に「怖かった」と言う弟妹に「よう頑張ったなあ」と声を掛けるのがやっとでした。

 昭和18年、私の中学入学試験の折、父は私を外地から徳島まで送ってくれました。外地へ帰る前日、写真館で並んで記念写真を撮りました。後で考えると、そのとき父は「これが最後になるかもしれない」と思ったのでしょうか。終戦直後の8月末、父は事業の後始末をするため商船に乗りましたが、海難事故に遭い、今も海の底に眠ります。セピア色のツーショットには父子の思いが写っています。

城東高校の赤レンガ塀(徳島市中徳島町)。城東高校の前身、徳島県立高等女学校の創立のときに造られた。徳島大空襲で校舎は焼失したが、塀は残り、今は一部のみがモニュメントとして保存されている

「家族との再会」 徳島市 香川博美(86)

 1945年7月4日の未明、空襲警報が鳴り、爆音が聞こえた途端、わが家に焼夷弾が落下して燃え出しました。私は祖母と一緒に薄い布団を頭にかぶり、家を飛び出して必死に新町国民学校の校庭を目指して走りました。到着すると、校舎は燃え始めていました。

 夜が明けると快晴ではありましたが、太陽は煙で覆われ、薄黒い鉛色をしていました。バラバラになった家族を必死に探索しましたが町中が焼け野原となり、熱気で歩けません。やっとたどり着いた天神社下の墓地で、幸いにも家族7人全員と再会することができました。もう、涙、涙のひとときでした。 

 ほどなくしてトラックが来てカンパンを配給してくれました。徳島駅は焼け落ち、国鉄は佐古駅より西方面は運行していましたので、取りあえず土成町(阿波市)の母の里に全員で行くことになりました。鴨島駅で下車し、一時間余り歩いてやっと土成町まで到着し、一日を終えました。

 それから先は食糧難の連続で、よく生活できたものだと思います。今も戦争の悲惨さを思います。

 徳島新聞では「記憶のかけらを集めて」と題して、戦時下の暮らしについての投稿を募っています。NHKなど全国のメディアと取り組むキャンペーン「#あちこちのすずさん」との連携企画です。戦時中の広島を舞台にしたアニメ「この世界の片隅に」の主人公すずさんのように厳しい時代を懸命に生きた人は徳島にも大勢います。戦時中の経験、また経験者に話を聞いた話を寄せてください。徳島新聞や阿波っ子タイムズに掲載します。氏名、年齢、住所、連絡先を明記の上、郵便番号770―8572(住所不要)徳島新聞社「記憶のかけら」係か、〈newsroom@topics.or.jp〉にお送りください。

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