徳島大空襲で焼け野原となった77年前の徳島市街地(県立博物館提供)

 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年7月4日、米軍による空襲が徳島市の街を焼き尽くし、多くの尊い命が犠牲になりました。空襲の体験者は悲惨な出来事を忘れていません。しかし、戦争を知らない世代にとっては遠い過去のものとなり、大空襲の記憶が薄れつつあります。77年前のあの日、何があったのでしょうか。徳島大空襲を知り、戦争の恐ろしさや平和の大切さについて改めて考えてみましょう。

 戦争が進むにつれ、空襲の被害は東京や大阪といった都市部だけでなく、日本全土に広がりました。45年7月4日午前1時すぎ、100機を超える米軍のB29爆撃機が徳島市上空に襲来し、約2時間にわたって大量の焼夷弾を投下する無差別攻撃を行いました。戦前は木造家屋がほとんどで、市街地は一夜で焼け野原。コンクリート製のビルなどがわずかに焼け残り、徳島市の約6割が焼失したと伝えられています。

 無差別攻撃は子どもや女性、お年寄りら武器を持たない市民の命を無残に奪いました。死者は約千人、負傷者は約2千人、被災者は約7万人に上ります。行方不明者もたくさんいたようです。助かった人は暗闇の中、夢中で逃げました。しかし、安心はできません。家も、食べ物も、何もない生活になりました。戦争自体が終わったわけではなく、多くの人が不安と悲しみを抱えていました。

2020年夏に撮影した徳島市街地

 77年がたった今も空襲の爪痕は残っており、旧高原ビル(国際東船場113ビル、東船場町1)のひび割れた窓ガラス、壊れずに焼け残った城東高校(中徳島町1)の赤れんが塀などがあります。県立図書館・県立博物館(八万町向寺山)や県戦没者記念館(雑賀町東開)にも空襲に関する写真や本が展示、保管されています。また、徳島新聞の公式ユーチューブチャンネルでは、徳島大空襲の概要や戦争体験者の声をまとめた動画「ふるさとを焼き尽くした劫火」を公開しています。

 

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