満州からの引き揚げ体験を語る中山さん=藍住町奥野

 ロシアのウクライナ侵攻から5カ月余り。主要都市は破壊され、今もウクライナ国民は恐怖と隣り合わせの生活を強いられている。77年前、太平洋戦争末期の1945(昭和20)年8月9日、日本が中国東北部を占領して建国した満州国に旧ソ連(ロシア)が一方的に攻め込み、武器を持たない日本人が標的となった。当時を知る徳島県民はその時の体験をウクライナ侵攻に重ね、「力による支配は悲劇しか生まない。戦争は絶対にしてはならない」と語る。

 満州は現在の中国・吉林省や遼寧省などを中心とした地域。31年の満州事変を機に日本が占領し、32年に建国を宣言した。国策として多くの開拓民が日本から移住。終戦時の在留日本人は約155万人に上った。

 藍住町奥野の中山清一郎さん(90)は幼少期に両親と満州に移住。水洗トイレ付きの自宅など生活は比較的裕福で、食料にも困ったことはなかった。厳冬期になると、小学校の運動場は水がまかれて凍り付き、アイススケートを楽しんだ。日本は戦時下だったが、満州はのんびりとした雰囲気だったという。

 状況が変わったのは45年8月6日以降。広島に「大型爆弾」が落とされたとの報道に加え、ソ連軍が満州北部から攻め込んでくるという情報が民間人の間でも駆け巡った。そして8月9日、日ソ中立条約を破棄したソ連軍が侵攻し、満州国は崩壊した。

 当時、中山さんは13歳。不安が募った。8月15日に終戦を迎えたものの、住んでいたハルビンにはソ連兵が続々と押し寄せ、物々しい雰囲気に。自動小銃を持った兵士が自宅に何度も入り、楽器や写真機、着物などを持ち去った。「逆らえば殺されるのでされるがままの状態。戦争に負けるとこうなるのか、と情けなくなった」。日本人は国や軍に見捨てられ、一帯では略奪が横行した。

 激戦となった北部から多くの人が着の身着のままでハルビンへ逃げ込み、廃虚で過ごした。冬は飢えや寒さで亡くなる人が増え、毎朝のように馬車で遺体が運ばれていたという。行き場のない中山さん家族は、約50人の日本人と地下室のような施設で息を潜めて生活した。厳しい食糧事情に耐えながら翌46年8月、ようやく日本への引き揚げ命令が出た。

 しかし、その道中でも機関銃で狙われたり、船に乗せてもらうために大人たちが現地の中国人に自分の腕時計を渡したりした。体調不良で集団から離れ、帰国を諦めたお年寄りも少なくなかった。同年10月、博多港に到着。「本当に難民のような生活を強いられ、ぼろぼろの格好で日本に着いた。みんな泣いていた」と思い返す。

 日本人が裕福に暮らしていた満州国は、中国から奪い取って造った国だった。中山さんは言う。「当時の日本も領土を広げるために戦争を繰り返していた。多くの人の恨みを買っていたのだろう」。