終戦から77年を迎える今年も、徳島新聞は「戦時下の暮らし・記憶のかけらを集めて」と題して、戦時中の暮らしに関する投稿を募集しました。太平洋戦争前後の広島を舞台にしたアニメ映画「この世界の片隅に」(2016年公開)の主人公すずさんをモチーフに、全国のメディアが展開するキャンペーン「#あちこちのすずさん」との連携企画です。台湾から日本に引き揚げた時の安堵(あんど)と不安、戦地へ赴いた父の後悔、駐屯兵とのひとときの交流―。読者からはさまざまな「記憶のかけら」が寄せられました。いずれの投稿からも何でもない日常の尊さ、それを破壊する戦争の愚かさが伝わります。一部を紹介します。

「列車から見た菜の花畑」徳島市 川﨑紀代美(83)

 台湾にいた私たち一般日本人には、それぞれ自分の身寄りを頼って日本に引き揚げるよう命令が出ていました。

 私たち母子も夏物3枚、冬物3枚の着替えと荷物少々を持って台北の港へ。大きな倉庫で荷物も身体も米兵に検査されました。金属類や金品などが見つかれば、そのグループ全員が乗船禁止です。私は直前に亡くなった祖父のお骨を背負っていました。

 約1週間かけて鹿児島の志布志へ。船中では食べる物も吐く物もなく、うなり声だけでした。途中、亡くなって毛布に包み、海中に「サヨナラ」した方も。寂しかったことでしょう…。

 鹿児島の港に着くと役場の方から「お帰りなさい。疲れたでしょう、もう大丈夫」と6歳の私もほっとする優しい言葉をいただき、涙が出ました。大人も子どもも、「この日本で生きていくためのお金です」と一人千円のお金を受け取りました。すなわち、今から衣食住全て、自分の力でやっていくようにとのこと。一緒に船に乗ってきた人々も、うつむいてため息。腰が抜けたように座ったままでした。

 翌日、それぞれ身寄りを頼るようにと汽車に押し込まれました。身動きもできないほど、人も荷物も詰め込まれています。汽車が動き出すと、黄色い花畑が見えました。菜の花です。「菜の花畑に…」とハミングが聞こえてきました。車中の人も目を潤ませています。

 今後どうなるかと心配な思いでそっと母を見ると、ぼうっと窓外を見ていました。 

「そら豆の思い出」徳島市 久米泰世(86)

 7月4日、徳島市が大空襲に遭い、徳島駅近くにあった刑務所が焼けたので、私が通っていた川内南小学校の北校舎が受刑者の住まいとなりました。赤がはげたような色の服を着た人たちが右往左往していました。講堂には麦の焼け残りが山と積まれていました。

 農繁期には、出兵した兵士の家に手伝いに行きました。留守宅にいる家族の方がそら豆をいってみんなにくださいました。私は当時、7歳。年を経て、このお宅の前を通るたび、ご迷惑をお掛けしたなとの思いがあります。

「父の体験」鳴門市 勝山武志(79)

 父は徴兵前に海軍航空兵を志願、厳しい訓練を終えて空母加賀の搭乗員に配属されました。昭和12年8月、日中戦争に参戦。海軍入隊以来、助け合った戦友の機が煙を吹きながら最後、父の機に近づいて別れを告げたそうです。

 後の戦いで目を負傷した父は一線を退き、内地の練習航空隊に転勤。交代するかのように弟が機関兵として加賀に乗艦。昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦で加賀は大被害を受けて沈没。「生きたまま沈んでいく弟の心中を思うと今も胸が苦しい」と父は言っていました。

 昭和20年になると、佐世保にいた私は徳島の祖父母の元へ。母と妹は佐世保に残りましたが何度も米機の機銃掃射を受け、母は妹を抱いて山中を命からがら逃げました。

 7月4日未明の徳島大空襲。私は叔母に背負われて逃げました。当時、私は2歳9カ月。暑かったこと、夜空に星が光り、深夜なのに明るかったことを覚えています。後に叔母に聞くと、光っていたのは焼夷(しょうい)弾で、明るかったのはわが家が燃えていたからだそうです。

 父は無事に帰ってきましたが、亡くなるまで、若い練習生を戦場に送り、自分が生き残ったことを恥じ、悔やみ続けていました。

「マツタケだと思ったら」阿南市 鈴木レイ子(81)

 終戦後、父が戦地から帰って来た。私は父が怖くて、しばらくは近寄ろうともしなかった。以前にも増して食べ物が手に入らなくなった。

 この頃はすべてがニセモノの時代。母はしょうゆの代わりに「イリ汁」というイワシなどを煮た後に出る汁を買いに行くようになった。いつの間にか、母は売る側に。だが、南海地震の折には仕入れたイリ汁の瓶が全部割れ、わが家の板間が生臭い水浸しとなった。

 なんとか家族を養おうとした父は、どこからかおばちゃんたちを雇ってきて、わが家でタバコ製造を始めた。おばちゃんたちは戦争の後遺症などどこ吹く風と陽気に葉タバコを巻いていた。しかし、長続きはしない。すぐに警察に踏み込まれ、あえなくタバコ工場は解散となった。

 あるとき、母が大きなおなかをしている。「かあちゃん、赤ちゃんが生まれるん?」と私は無邪気に尋ねた。母は黙って笑っていた。おなかに巻き付いていたのは米が入った布袋。大阪に売りに行けば大もうけになるという。小松島港を夜航でたち、翌朝に天保山着。一日米を売り、再び夜航で帰る。しかし、危険を伴う。油臭い船底に仲間と身を横たえた母は、不安と期待に揺られていたことだろう。

 ある日、祖母が近くの山からマツタケを採ってきた。家族は大喜びし、早速マツタケのみそ汁となった。7人が食卓を囲み、私だけが匂いが変だと思って食べなかった。「これがマツタケの独特の匂いだ」と父は言ったが、このマツタケ、なんと毒だった。

 間もなく家族は上げたり、下げたり。仕事もやめて枕を並べて寝込む始末。医者に診てもらうと「もうちょっと遅かったら一家心中になるところだったぞ。戦争の弾丸に当たらんときたのに毒キノコにあたってたまるか」。家族はこの医者の言葉に一様にうなずいた。

「私の心の片隅で」小松島市 大住順子(60)

 私には遠い親戚のおじいちゃんがいました。45年前、縁あって亡くなるまでの数年間を一緒に暮らしました。若い頃から理髪店を営み、ハイカラな人でした。

 私の初めてのボーナスでおじいちゃんと母と東京の靖国神社に行きました。おじいちゃんの一人息子が戦死し、祭られていたからです。80歳を超えるおじいちゃんは目に涙をためて「ありがとう」と言いました。まだ若かった私はその心情も分からず、息子さんのことを聞くこともなく、おじいちゃんは亡くなりました。

 それから40年近く後、入所中の母の着替えを用意しようとたんすを開くと、中から「吉成守三郎様の思い出」と書かれた茶封筒が出てきました。おじいちゃんの名前です。息子さんに宛てた手紙や息子さんの写真、息子さんの友人からの手紙などが入っていました。文面には「国家のため」「勇躍を願う」など勇ましい言葉がありましたが、その後には必ず互いの健康を気遣い、思いやる言葉がありました。

 友人からの手紙にこんな一文がありました。「2階から見渡す田園もすっかり緑から黄色に移り変わりました。秋去れば冬、冬去れば春、そして夏。人間というものは、いやこの世界は全てのものが一定の単純な事柄を繰り返しているのですね。そして人間も平凡なことをやっていける人、これがすなわち非凡な人なのです。お互いに自分の務めに忠実に過ごしましょう。また会える日を楽しみに」。

 繰り返される厳しい訓練の合間に書かれた一文です。慣れてしまっている平凡な日々はもしかすると非凡、奇跡なのかもしれません。

 おじいちゃんの身内はもう誰もいません。生きていたことを知るのは私が最後になるのかもしれません。母はおじいちゃんが生きた証しを残すため、戦死した息子さんを忘れないため、茶封筒を残したのだと思います。だから私も生きている間、忘れないでいようと思います。

 この世界の片隅で生きてきた人を、私の心の片隅で、いつまでも。

「7月4日」徳島市 塩江都志子(84)

 7歳、小学1年生の時でした。7月4日の大空襲の日、空襲警報発令のサイレンを合図に、家族と防空壕へ逃げ込みました。しかし、暑くてたまらず、家の前にある、木材を係留している小さな川へ飛び込みました。空襲がやみ、夜が明けて見えたのは、そこかしこに浮かぶ遺体でした。川の中にも爆弾が落とされ、亡くなった人たちです。今も脳裏に焼き付き、忘れることはできません。

 プシュー、プシューと川に落ちる爆弾の音と光も、今でもはっきりと覚えています。

「駐屯兵との交流」阿南市 匿名希望(85)

 終戦間近の昭和19年ごろ、紀伊水道に面した海岸に、敵上陸に備えてか、小部隊が駐屯したのです。

 隊長はT中尉、副官はS曹長で、2人は近くの民家に泊まり、他の下士官や70~80人ぐらいの兵隊は海岸線に沿った砂山にいくつかの壕(ごう)を堀り、その中に住んでいました。

 わが家の近くの神社にある10アールぐらいの境内が軍事訓練の場になりました。10人余りの兵隊を1人の下士官が指導していました。訓練と言っても、子どもの目からしてもお粗末な活動でした。その頃、村の老人や婦人は竹やり訓練をしていましたが、兵隊がやっていたのもその程度のことでした。

 わが家は農家で、畑で育てたサツマイモなどを母の指示で兵隊の所へ何度も持って行きました。そのうち、多くの兵隊と顔なじみになりました。互いに名前も知り、道で会うとあいさつを交わしました。

 そして、終戦の日。数日後に小さなトラックが来て、わずかばかりの兵器や弾薬などが運び出されました。いつの間にか、兵隊の姿も見えなくなりました。