父親が眠るフィリピンのセブ島で慰霊を行う松原さん(右から2人目)=2013年(松原さん提供)

父親が眠るフィリピンのセブ島で慰霊を行う松原さん(右から2人目)=2013年(松原さん提供)

松原隆光さん、享年27歳

松原隆光さん、享年27歳

 太平洋戦争の終結から15日で77年を迎える。戦争は戦地へ赴いた人だけでなく、家族の心にも深い傷痕を残した。「誰にもこんな体験をさせたくない」。戦争がもたらした悲しみを抱えて生きる遺族に思いを聞いた。

松原良明さん(78)阿南市畭町亀崎

 私が生まれたのは1943(昭和18)年10月。その8カ月後、父に召集令状が届き、出征した。父の記憶は全くなく、写真でしか顔を知らない。

 父は44年9月にフィリピンのセブ島に到着し、海上輸送の任務に当たっていた。戦局は次第に厳しくなり、一帯の制海権を米軍に奪われた。日本軍はセブ島の山中で地上戦を展開して抵抗したものの、翌45年4月29日の切り込みで玉砕した。戦死公報によると、父の命日は5月3日だった。

 母は乳児の私と、父の実家に身を寄せていた。祖父母や親戚がおり、小さな畑もあったので、食料は何とか確保できた。ただ、祖母と祖父が相次いで亡くなり、生活はいつも厳しかった。

 私も小学5年生になると、牛を使って田んぼを耕していた。今と違って便利な農機具はない。小学生も貴重な労働力で、暮らしを支えるためにわがままは言えない。当時は同じように戦争で父を亡くした友達もおり、家の手伝いをするのが当たり前だった。

 母は辛抱強く、気丈だったが、戦争に夫を奪われて本当につらい思いをしてきた。遺骨もない。戦死を信じておらず、戦後間もない頃は外地から復員した兵士が集まる場所に何度も出掛けていた。

 戦後の混乱を乗り越えると、生活は落ち着いた。終戦から70年近くたった2013年、フィリピンの戦没者を追悼する慰霊巡拝の話があった。私は当初、行くかどうか迷っていた。そんなとき、92歳の母が出征時の出来事をまとめた手記を見せてくれた。

 それによると、戦地へ行くとの知らせを受けた母は生後8カ月余りの私を背負い、夜行列車や船などを乗り継いで軍施設があった鹿児島へ向かった。私は道中泣いてばかりで、あやそうと思っても母乳は出ず、菓子やおもちゃもない。地図も持たず、旅費も借りていた。わずか2泊だったが、父と面会できて一安心したという。

 そんな母に「私の元気なうちにどんな所で戦ったのかをしっかり見てきてほしい」と言われた。

 13年3月、父が眠っているセブ島のギママという地域を慰霊団で訪れた。山と谷に囲まれた場所。こんな山の中でどうして死ななければならなかったのか。妻と子を残して国のために戦死した父。当時の心境を想像すると、たまらない気持ちになった。父がいなければ、今の自分はいない。胸に込み上げてくるものがあった。母に託された米などを丁寧に供えた。

 帰国後、現地の写真を見せながら慰霊の話を母に伝えると、本当にうれしそうな表情を浮かべていた。長く気に掛けていたのだろう。母は19年に98歳で父の元へと旅立った。