幼少期から働いた戦後の暮らしを振り返る坂千代さん=牟岐町内妻

坂千代秀吉さん

坂千代克彦さん(77)牟岐町内妻

 母の言葉が今も脳裏から離れない。「勉強はしなくていい。高校にも行かなくていい」。当時、その真意は分からなかったが、近所の人に「勉強して高校や大学に行くと、家におってくれんようになる」と語っていたという。母は、家を守るために私を進学させないと心に決めていたようだ。

 父の秀吉は私が生まれる1カ月ほど前の1944(昭和19)年7月に出征。シンガポール、タイ、そして徳島県出身の戦没者が6千人を超えた激戦地のミャンマー(旧ビルマ)で戦った。

 翌45年、長期の行軍に加え、粗悪な食事や劣悪な衛生環境が影響し、父はマラリアと大腸炎で野戦病院に収容された。その後、負傷兵と転進中に敵の攻撃を受けて生死不明に。24歳だった。自宅に戦死公報が届いたのは3年後。戦没日は5月18日と記されていた。

 出征後は祖父母と母との4人暮らし。戦死が知らされても家族は信じていなかった。終戦から29年後に元日本兵が南方の島から帰還した際、祖母はそれを報じるテレビの画面をずっと見ていた。父も帰ってくると思っていたに違いない。

 一方、祖父は私を幼い頃から厳しく育てた。農業や林業で生計を立てており、私は物心つく前から田や山に連れて行かれた。ほのぼのとした雰囲気はなく、本当に手伝わされた。友達と遊ぶ時間もない。小さな体で思うように作業ができずにいると叱られ、たたかれることもあった。

 父は7人きょうだいで唯一の男で、跡継ぎだった。祖父は私を父のように一家の大黒柱として育てるために厳しく接していたのだと思う。ようやく作業に慣れてきた10歳ごろ、祖父は脳梗塞で寝たきりになった。

 母は「勉強しなさい」と言ったことがなかった。私自身も家を継ぐのが当たり前だと思っていて、中学卒業後は進学せずに農家になった。時代は戦後の混乱期から高度経済成長期へ。教育を重視する風潮が高まりつつあり、友人の多くは高校へ行った。

 そうした状況に、父の姉や妹に当たるおばが集まり、「高校には行かせてやってほしい」と母を粘り強く説得した。私は1年遅れで高校に入学できた。その後は地元で働き、母の願い通りに家を守ってきた。本音を言えば、さらに上の学校に進みたいとの思いがあったが、農家を継ぐという一つの道しか与えられなかった。

 私は戦争を恨んでいる。戦争がなければ父が戦死することもなく、勉強をして自分の好きな道が選べた。進学や就職を機に親元を離れることで苦労することもあるが、それは人生の大きな勉強になると思う。私は3人の子どもを大学に通わせ、自分の好きな道を歩ませている。私と同じ思いをさせたくなかった。

 太平洋戦争の終結から15日で77年を迎える。戦争は戦地へ赴いた人だけでなく、家族の心にも深い傷痕を残した。「誰にもこんな体験をさせたくない」。戦争がもたらした悲しみを抱えて生きる遺族に思いを聞いた。