戦死した曽祖父の資料を眺める谷さん=美馬市内

戦死した曽祖父の資料を眺める谷さん=美馬市内

武市恒市さん

武市恒市さん

谷亜央唯さん(22)美馬市穴吹町穴吹

 大学2年の秋、母親から「遺族会の慰霊巡拝に行ってみたらどうか」と言われた。太平洋戦争末期、曽祖父がフィリピンで戦死したのは知っていた。遺児の祖父が参加するので「せっかくの機会だから」という話だった。

 曽祖父は1944(昭和19)年6月、招集を受けてフィリピンに向かった。それまで旧満州(中国東北部)などに3度出征したが、妻には「今度は生きて戻れんかもしれんぞ」とつぶやいていたようだ。7月中旬にマニラに到着。戦地から届いたはがきには、子どもの成長や家族の暮らしを気に掛け、稲作の労をねぎらう言葉が書かれていた。

 戦死が分かったのは終戦から1年3カ月ほどたった頃。帰還した戦友の手紙や戦死公報によると、曽祖父は45年7月31日、ルソン島北部で迫撃砲弾を受けて死亡したとされる。33歳だった。そんな話を祖父が教えてくれた。でも、ほとんど実感が湧かなかった。慰霊巡拝に行くことは決めたが、当初は「海外旅行」という意識が強かったと思う。

 2020年1月、私と同世代のいとこ、祖父母の4人で参加した。フィリピンに到着後、間もなく開かれた慰霊祭で、涙を流して悲しむ多くの遺族を目の当たりにし、衝撃を受けた。75年たっても戦争の傷痕は深く刻まれていることを強く感じた。

 4日目には曽祖父が戦死した場所に近い街・ボントックへ。南国らしいゆったりとした雰囲気で、ここで戦争があったとは想像できなかった。みんなで手を合わせた。「戦争がなかったら」「戦争で何が残ったのか」。そんなことを考えた。曽祖父が眠っている地を実際に訪れたことで、戦争を自分事として捉えるようになり、事実をきちんと知らないといけないと思った。

 大学3年の時、満州から引き揚げた女性の体験を伝える企画展が高知市で開かれるのを知り、学生実行委員会のメンバーとして運営に携わった。若い世代に足を運んでもらおうと、SNS(交流サイト)を使い、企画展の周知だけでなく、みんなで勉強しながら満州開拓の歴史や意図なども随時発信した。フィリピンでも満州でも戦時中は各地で多くの人が大変な目に遭っており、人ごととは思えなかった。

 「戦争を勉強して何になるのか」。友達にそう言われたこともある。知らないと、伝えないと、忘れられていく。今のウクライナで起きている悲劇は過去に日本でもあった。遠い国の出来事ではない。友達同士でも家族同士でも、何かの機会に少し戦争の話題に触れるだけでも良いと思う。同じ世代にできる範囲で伝えていきたい。

 太平洋戦争の終結から15日で77年を迎える。戦争は戦地へ赴いた人だけでなく、家族の心にも深い傷痕を残した。「誰にもこんな体験をさせたくない」。戦争がもたらした悲しみを抱えて生きる遺族に思いを聞いた。